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海原みち子は、嗚咽がとまらない唇を白い無機質な便器に向けた。 汚物が溢れ出す。 何度も何度も躰がバウンドし、酸っぱい味が喉から舌の先へと吐き出されていく。
飲みすぎた。 わかっている。 でも飲まないではいられない事情が、みち子にはあった。
八年付き合った上司の山村常男が、同じ職場の五歳年下の後輩、天堂ヤス江と二股をかけていたのだ。その事実は今夜、知った。 つい、さっき。
十五分前、みち子は新観コンパで居酒屋にて、飲み慣れない酒を連勺されながら、いつもの穏やかな笑みを絶やさないでいられた。 三段腹の部長。 貧相なキツネ目の係長。 はしゃぎ加減が「学生ぽさ」をぬけないウザい同年の課長、粒谷。
酌み交わされる杯。 繰り返される「乾杯」 意味不明な笑顔と低レベルな駄洒落。
煙と喧騒の向こうに見慣れた爽やかな笑顔は健在した。
少し、疲れた感じで気をつかって笑顔をふりまくあのひと。 少し、はずれた冗談で場をリラックスさせて、そっと陰で息をつくあのひと。 笑いシワが年の割に誰よりもあって、老練たちを懐柔していく・・・それが、私の恋人・常男。
恋人だった男。さっきまでは。
化粧直しに入ったトイレで、ヤス江が告げた。 常男によって妊娠したことを。
ずっとずっと付き合っていたことを。 視界が回る。 お酒のせいかしら。
違う。 正気が保てない。 信じていたことが、足元から崩れるってどんな感じ? こんな感じ? 認識できない・躰いっぱいで現状を拒否して、こんなときに限って、彼の姿は見えない。 「行方不明」だ。 こんなときに限って、行方不明なのだ。 いつも・・・そうだ。彼は。 空気と流れを読むのがうまい。 気配を感じて、身を隠したり現したり。 魔術師のように、神出鬼没で抱きしめられて、噛んだガムのように放っておかれた。 そのアップダウンな愛し方から離れられず、八年を費やした。
そして、今、本当の正念場がきたのかもしれなかった。
下唇から滴り落ちるゲロ液をぬぐいもせず、みち子は無様だと過去を振り返っていた。
ふと、裾を引っ張る感じがして、その力強さに違和感を覚えながらも現実感が伴なわず、反射的にみち子はその力が発する方・・・袖口に顔を向けた。
小さな子供がいた。
とんがり帽子にダブダブのツナギのような服を着た、直径十センチ程のレトロな格好をした男の子だった。
彼はキラキラした輝く瞳で、みち子に話し掛けた。
「吐くって、どんな気分?ボク、まだ初体験なんだ」
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