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嘉藤千夜(かとう ちや)は、わたしの脚本(ほん)書き用のペンネームだ。 しかし両親一族郎党以外、友人知人には『千夜』で通し『千夜』で通されている。
そう、はしくれセレブ、本物の『貴族』が聞いたら、腹で茶 を沸かせるほどのネームバリューだろう。
それでも、これまで付き合ってきた男たちは、わたしのなけなしの「名声」に対して良い意味でもそうでなくとも歯牙にかけない野郎どもだった。 つまり、わたしがナニモノで、どこから来てどこへ行くとしても気にはしなかっただろう。 誰も「見返り」など期待するヒトはいなかった。 その点では、恋人として「偽者」ではなかったと思う。 たとえ結果的には「本物ではなかった」としても。 いっぱしの失恋だ。 なんちゃって。 こんなことを思う程度は、わたしも自惚れる元気があるということかな。
今夜は、もう酔えそうにないみたい。 ブルドック三杯目でも、心が勝手に飛んでいってくれない。 天職と自認している架空世界をホンに現す作業を、苦痛と感じながら楽しんでもいた。それでも時々自分自身の渇きに息苦しさを覚えて頭が真っ白になることがある。 書けない。 書けない。 書きたくない。 書きたい。 モノ書きなら、一生蝕まれながらも折り合いをつけていくことだろう。
ジェニー姉さんに100万回も一喝され、自分自身100万回も立て直してきた感情線だ。わかっていながら、低迷する気分をもてあまして店に顔を出した。 酔えないから弱音をはけない(笑)。吐きたかったのに。 ジエニー姉さんは新しい杯を作りながら、妙に時間を気にするそぶり。 気になるのは、その隠そうとするところ。
なぜかな。
「あんた、今日は格別疲れた目をしているわね。これ飲んだら、シャワーなんか浴びずにぐっすり寝るのね。 休ませないと、働くもんも働けないわよ」 猫撫で声が、妙に癇に障る。 わたしの癖も気性もこのひとに知られていると同時に、わたしもこのひとのそれを知っているつもりだった。
心もとない一言は、すぐに伝わる。 彼女はわたしを心配しているのではなく、明らかに巣に帰したがっている。 少なくとも今夜は。
ちりりん
レトロな音を響かせて、入り口からサアッと風が吹いて、誰かが背後に着席する音がした。 それはあっというまの出来事で、ジェニー姉さんの顔が一瞬、色紙をかぶせたように暗く曇ったように見えたが、それはまったく気のせいかもしれない。 彼女は笑顔を絶やさなかった。
「こんばんわ」
低く抑えたような優しげな声で、彼は逢ったばかりのわたしに軽く微笑んだ。 「こんばんわ」 礼には礼を返した。
彼を振り返ったとき。 なんて言えばいいだろう。
そのヒトは一言で言えば、とても綺麗な「青年」に見えた。 ハッとするほどの。 思わず顔を赤らめるほどの。 ここで逢えたが百年目と思ってしまうほどの。 容姿端麗・眉目秀麗・満員御礼(笑)な美青年が、まさにそこにいたのだ。
彼は駆けつけ一杯目の品をどれにしようか悩んでいるふうに見えたが、二本の長い指で挟んだタバコをカウンターのテーブルに軽く連打して、どこから声が出ているのと思うようなスッ飛んだ高い声色で 「ジェニーーーさぁぁん!!}」 と叫んだ。
そのとき。 わたしの胸の奥に何十本もの針が刺さり、それがひきつって醜い嫉妬の形を作った。歪んだ居心地の悪さを痛烈に感じた。
彼は、ジェニーに恋しているのだと判った。
今のわたしは、超常現象も裸足で逃げ出すほどの優秀なエスパーかもしれない。 自分のことのように他人の恋心の深さを瞬時に知ってしまったのだから。 というより、彼があまりにも無防備で明け透けだったからなのだろうけど。
わたしは、恋に落ちてしまっていたみたい・・・。 しかも一目惚れという、如何し様もないはじまりで・・・。
二十幾年生きてきて、初めてだ。 好きになってしまった驚異的な速さ、それを知るのと同時にその相手が焦がれているであろう相手を知るのは。
ジェニー姉さん あなたは偉大だ。
あなたの予防線を、役にたてることは出来なかったけれどね。
ひとめ見る、頭の先から足のつま先までをインプットする早業で恋に落ちてしまったよ。 ばかばかしいわね。
千の夜という名にふさわしい刹那的な激しさで、例え砕かれる想いだとしても。
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