物品の移動はなんとか土曜・日曜で済ませる事が出来た。 郵船ビルで送り出す方を指揮していた謙治は、やっと、移転先の神谷町、城山JT森ビルへ行けたのは日曜日もとっぷり暮れてからであった。 謙治を見ると皆は良くやったと言って、焦燥しきっている謙治の肩を叩いたり握手をしたりした。 コンピューターの調整の為に本店から来ていた人達は、引っ越しが旨く行かないのではと危惧していたようだ。 配置を大きく変えられてしまった総務部は、キャビネット、パソコン、スイフト、ファクシミリ、机の配置総てを考え直さなければならなくなってしまった。 もう、運送会社の作業員達は帰ってしまっていた。 このような事態を予想していなかったので、いつも謙治と一緒にオフィスの模様替えを嫌な顔をひとつせずに手伝ってくれる年配の使走員達は出勤していなかった。 謙治と謙治の上司の角田氏の2人で、翌朝皆が出勤したらすぐに仕事が出来るように整えねばならなかった。 9月13日、月曜日、新しいオフィスでの第1日である。 前日に書類等の整理に出なかった人達は、早朝出勤して慌ただしくしていた。 机、電話、ロイターと、総てが新しくなったディーリングルームでは、心配されたトラブルも少なく、まずまずの出足である。 総務部という所は、このような時は大変である。 謙治はスイフトがあるのでいつものように7時前に出勤しなければならなかったし、身の回りでする事がたくさんあったにも拘らず、身勝手なマネージャー達の面倒を何はさておいて見なければならなかった。 支店長のソテール氏は要求が多い。 「このロッカーは要らない」。 しばらくすると「ソファーの向きを変えてくれ」。 彼は、部屋の隅々に日本旅館で枕許に置くような、障子張りの小さなランプを置いている。 その電源が無いと言って喚く。 いつもであれば、使走員達が手伝ってくれるのであるが、この日は、いや、この日から様子が違っていた。 使走員達が通常回る所は、日に何度か行く日本銀行や、代理交換をお願いしている三和銀行東京営業部を始めとして、ほとんどが今までいた丸の内に近かった。 移転に伴い、かなり遠くなる事から、2人しか居ない使走員達は、かねてから増員の要求をしていたのであったが、認められていなかった。 おまけに、今までは相手先の使走員によって届けられていた書類までも、遠くなったから取りに来てくれと言われたりしている。使走員達は、自分の領域だけで手一杯以上になっていた。 郵船ビルの時は、電源コンセントを付けたいと言えば、すぐ、ビルの電気技師が飛んで来てくれていた。 今度は様子が違う。 設計事務所を通して大家さんの日本たばこに図面を付けて申し込み、日本たばこが森ビルに伝え、森ビルから電気工事業者に発注される。 工事業者は日程を調整して4・5日以内に来てくれる。 ソテール氏にそんな事は通用しない。 近所の電気屋が分からない謙治は、秋葉原へ飛んで行き、コードと差し込みプラグをたくさん買って来て応急処置をした。 従業員休憩室には大型の冷蔵庫と電子レンジが置いてある。 ブレーカーが飛んでしまった。 これに関しては森ビル管理がすぐに来てくれ、ブレーカーの復旧をしたが、電源の増設は後になるので、電子レンジは暫くお預けとなった。 秘書たちが騒いでいる、やはり電源プレーカーが飛んでしまった。 パソコンも打てないと言って騒いでいる。 彼女たちは、以前からそうであったが、空調が寒いからと小型の温風ヒーターを使うのである。 ヒーターをご法度にしてブレーカーを戻してもらう。 あちこちで寒いの、熱いのと騒ぐ。 引っ越し荷物が足りないという人もいる。 ファクシミリが動かないと言うので行ってみると、通信線が繋がれてない。 睡眠不足と疲労とで、謙治は誰にたいしても親切な対応が出来なくなっていた。 怒りっぽく、刺々しく苛立っていた。 芸術の都パリ。 ややもすると総てのフランス人が絵画や彫刻、音楽に優れた鑑賞能力を持っているように思いがちだが、実際は、ほとんどのフランス人が絵画に無関心であると言っても過言ではないと思う。 とは言え、フランスの銀行であるパリ国立銀行にはたくさんの絵画がある。 多くは、1978年に郵船ビルに移転する時、本店からの建築家ローディエ氏に依って揃えられたもので、当時は、未だ余り日本には知られてなかったブラジリエ、カトラン、カシニョールと言った新進気鋭のフランス人画家のリトグラフが主であったが、ヤンケルの大きな油絵も玄関ホールに飾られていた。 彫刻とは少し違う、いわゆるオブジェと言うのだろうか、クラスノという人の創った訳の分からない発砲スチロールの想像物、幾つものBNPのスペルをあしらった作者不明の2メートル角の鉄のお化け。 それらが前店舗の玄関を入った左右の壁に据え付けられていた。 謙治は、それらの芸術品を、どうしたら取り外せるものか業者と調べている所へ、オースタン氏が通りかかり、「ああ、そんなものみんな壊してしまえ、あれもだ。」とヤンケルの油絵も指した。 「あれは、15年前に150万円もしたのですよ。」「そうか、お前がそういうなら持って行こう。」ということになった。 鉄のお化けは多少壊れていたし、クラスノはちょっと惜しい気がしたが、壊さずに取り外すのは容易ではなさそうであったのでオースタン氏の意見に従うことにした。 それにしても、彼が捨ててしまえと言ったヤンケルの「ブランシェ・シュール・ルージュ」と名付けられたその油絵は、謙治はそれを何号というのか知らなかったが、横120センチ、立て180センチの堂々としたもので、それを鑑賞する為にのみ訪れる人も時にはあるのであった。 実際、このサイズの絵は、天井の高かった一階ホールでは立派であったが、一般事務室階では、どうにも格好が付かなくなってしまっていた。 ローラン氏が、いつものようにのっそりという形容が相応しい歩き方で、謙治の前に現れ、「玄関ホールに有ったフレームはどうした。」あれのことだ、あの2つのオブジェの事を言っているのだろう。 もう、移転から一週間になろうとしている。 「あれはオースタン氏の指示で捨てました。」 ローラン氏は、常にそうであるが、決して物事を荒立てることはしない。 しかし、ねっちりと、あとへは引かない。 例えそれが、もう取り返しがつかないか事であっても。 日曜日に搬出の済んだ郵船ビルでは、早速、新テナントを迎えるべく、月曜日の朝から造作の取り壊しが始まっていた。 新テナントが決まってない部分であっても、原状復帰工事は急がなくてはならない。 復帰工事完了までは旧テナントが賃料を払わなければならないので、遅れると問題が起き易いのである。 壁、間仕切り、金庫室の鉄骨入り45センチ厚の壁さえも、跡形もなく無くなっていた。 むき出しの天井には、空調の太いダクトや電線の為のパイプが走りまわり、謙治が少年時代に見た、懐かしい裸電球が幾つもぶら下がっていた。 柱も、床も、コンクリートがむき出しで、面影らしいものは何一つ残っていなかった。 もちろん、確認を求められて、オースタンが壊す事にOKを出した、あの2つのオブジェも。 「総べて無くなっています。 取り壊され、建築廃材と共に捨てられました。」ローラン氏は、大袈裟に驚いて見せ、「どこへ、どこへ捨てたのだ」「東京湾の埋立地です」多分、違うだろうと思ったが、場所などどうでも良かった。 彼は「拾って来い」と言う。 「壁と一緒に壊したのです」「拾い集めてこい」「埋立地がどの様な所か、ご想像出来ませんか。 東京が出すゴミの量をご存知でしょう。」ローラン氏は、東京に6年程住んでいるが、ゴミに興味を持った事はないであろう。 この件に関してのローラン氏の食い下がりは、以後数日間続いた。 保険請求するから、破片の写真でも良い。 建築業者に、不注意で壊しましたと、手紙を書いてもらえ、等々。 オースタン氏とローラン氏の考え方の相違の後始末をしているほど謙治は閑人ではなかった。 何故、捨てろと言った張本人のオースタン氏は、涼しい顔で居られるのだろう。 なぜ謙治1人が悪者にされたのだろうか。 移転から2週間が過ぎると、幾分落ち着いて来た。 絵画類もほとんどを掛け終えた。 総ての壁がスチール製になっている為、釘が使えず、高価なマグネットハンガーを使わねばならなかった。 全体の壁面積が増えていたので、絵画の絶対数が足りなくなっていたが、新規購入の考えは毛頭無いようであった。 それでいてマネージャー達は、自分の部屋には絵を欲しがり、それぞれの部屋が大きくなった分、今まで以上の絵を要求した。 彼等の絵の選び方は、1に色彩、そして迷った時は、「どっちが高いのだ?」と聞き、謙治がいい加減な返事をすると、高いと言った方を取った。 一般事務所用に飾る絵が極端に少なくなってしまい、謙治は、調整に随分骨を折らなければならなかった。 定年退職後に、オースタン氏の休暇中の代理として来ていたローラン氏は、相も変わらず支店内に居たが、彼は、彼のやり残した仕事、彼の机の隅に5年間積んであった仕事、就労規則の改定に取り組んでいた。 正確に言えば、弁護士が作ったものを検討していた。 それが終わらないと、彼が長い間待ち望んでいた、香港ランタオ島での安穏な生活には入れないのである。 移転から1ヶ月が過ぎると、どうやら謙治にも少しは落ち着きが出て来て、通常の業務を通常の状態でこなし始めた。 暫く手が着けられずにあった、海外電話を安くする方法。 防犯設備とディーリングルームやコンピューター・ルーム等への出入りの管理。 それらを落ち着いて検討する心の余裕が出来て来た。
|