謙治は、途中半年ほど抜けてはいるものの、パリ国立銀行が駐在員事務所として東京へ来た最初から勤務している。 銀行業務には直接携わってないので、その方面に付いては門前の小僧の域を脱していない面もある。 しかし、それ以外の諸々の事柄に関しては、プロ中のプロである。 特に、海外から赴任して来た人達にとっては、盲導犬の様な存在で、何をするにも手を引いて上げるのが謙治の永年の役目であった。 入国手続に始まり、住宅、交通、買い物、週末の過ごし方。 銀行にあっては、何かをする時にどのような届け出でや許認可が必用か。 これをする時はどこに連絡すべきか。 オースタン氏は謙治に何かを相談する事は殆ど無く、分からない事はよその会社、他のフランスの銀行に聞いて物事を決めていた。 だから、謙治の全く知らないフランス人の設計事務所が、何の挨拶も無しに事務所内を歩き回り、写真を撮り、一般行員は何の事か分からず謙治に尋ねに来る有り様であっても、謙治はまだ、新オフィスの設計や移転準備に関して蚊帳の外にいた。 何がどのように運ばれているのか、見当がつかなかった。 謙治は、これ迄に、いろいろな国籍の人達に接して来ている。 良く人が言うように、「何国人は何々だ」と、人種によって人の性格を決めるのは間違いであると常々思っている。 ただ、習慣の違いはある。 フランス人と日本人の習慣の違いで最も顕著なのが、休暇に対する考え方ではないだろうか。 仕事が特に忙しい時、休暇によって業務に混乱を来すと思われる時、日本人なら休暇を先送りするか止めてしまうだろう。 どっちが正しいのか知らないが、フランス人はそんな事はしない。 休暇は給与の次ぎに大事なものなのである。人によっては給与より大事かも知れない。 オースタン氏は、設計事務所に適当に指示をして長期の休暇でさっさと母国へ、郷里へ帰ってしまった。 ローラン氏は、とっくに定年になったのであるが、まだ長年懸案であった労働協約の改定書作りが済んでなかった。 のんびり屋のローラン氏は、決して急ぐ様子もなく、5年間机の角に積んであった協約書をいじり始めていたが、休暇だと称して2ヶ月程消えていた。 そのローラン氏が、オースタン氏の休暇中の業務を引き継ぐ事になってのこのこ表れた。 ローラン氏は、謙治の意見を無視するような事はない。 だが、困った事に、彼は決断に時間をかけ過ぎるのである。 ほんの些細な物事と思える件、机やカーペットの色が散々時間を掛けた末に決まらない事が多い。 設計事務所から図面が部分的ではあるが上がって来た。 驚いた事に総てが窓に対して45度になっていた。 間仕切り、机、キャビネット、総てが45度なのである。 斬新な設計というのかも知れないが、何とも不思議な気がする。 新ビルの室内工事の為の説明書には、間仕切りを組みやすい線というのが書いてある。 無論それは窓に対して90度、横の線は縦の線に対して当然90度である。 斜めの線にすると、天井の補強、照明器具の移設もしくは新設と費用が増える。 呑気なローラン氏も、さすがにこれには意義を唱えた。 賃貸借するのは、22階の半分強と23階全部であり、22階には、BNP証券と銀行の総務部、監査部、それとEDP所謂コンピューター室が入る事になっていた。 証券は45度を嫌い全部書き直しさせた。 総務を含む22階部分も全部90度にした。 23階もディーリングルームが90度になった。 他のセクションからは明確な反応が無いまま時が過ぎて行った。 丸の内からの移転の第一の理由として、ゆったりとしたスペースを約束されていた各セクションのチーフ達は、思った程のスペースが確保されてない事への不満が先にたった。 全体の図面が出来て役員達の部屋が異常なほど大きくなっているのに唖然とした。 本来は22階の証券会社で、全員を見渡せる位置で睨みを効かせて居るだけのフォンテーヌ氏の部屋が、23階の銀行部分に広大なと言えるぐらいのスペースを占めていた。 ソテール氏も、オースタン氏の部屋も広くなっている。 やや小振りの部屋が10室連なり、外出勤務の多い営業社員たちの部屋になった。 会議室もやたらに増えた。 だが、支店開設以来在った休憩室が無くなっていた。 従業員の昼食やお茶の為の部屋で、これが無くなる事は既にかなり昂じている経営者側への不満を募らせる事になりかねない。 謙治は強力に休憩室の必用性を訴え、ローラン氏には認めさせたが、後に、休暇を終えて戻ってきたオースタン氏とは、このことで随分嫌な思いをさせられた。 ついでに言って置くが、彼らの休暇というのは、2ヶ月間である。 電話設備の設置には、数日間では足りない。 ディーリングルームには別の電話設備がある。 ロイターその他のコントローラー類も2週間以上の設置日数を要求してきた。 そして、それ等の機械室と機器の多いディーリングルームには、特別の空調設備を備えなくてはならない。 銀行は銀行法で定められた日以外に休む事は出来ない。 土曜日、日曜日の2日間で設備類の移設は出来ないのである。 支店長達の想像だにもしなかった費用が、決して半端な額では無い費用が膨らみ始めた。 ディーリングの電話を新設する事は、特別に作られたディーラー達の机も新しくする事になる。 1台の机は小型乗用車一台と思っていただければ遠くない額になる。 それが36台、電話設備はもっと高額である。 図面も、機器類の発注も移転日の3ヶ月前には済ませたいのだが、オースタン氏はまだ戻ってこない。 ローラン氏は相変わらず決断出来ないでいた。 業者たちは苛々して謙治に迫って来る。 22階には、フォンテーヌ氏の案で、だだっ広い宴会室とケータリング用の水場の無いキッチン(水は引けないのだそうだ)が図面上に有る。 これを巡って喧々諤々となる。 総務も監査も部屋の狭さを訴え、EDPのコンピューター室は、電話の交換機を他に移してくれなければ置き切れないと騒いでいた。 総務の謙治の上司は、自ら図面を引いて使われる事のないだだっ広い宴会室を狭め、他の夫々を幾分広めた。 22階の総務部の隣になる監査部は、設計に関して一切口を出さなかった。 シンガポール中国人の監査部のボスは、謙治が相談に行っても適当に答えるだけで、何の意志表示もしなかった。 オースタン氏が休暇からもどって来て最初にしたのが、22階の宴会室を元の設計図の広さに戻す事であった。 これは大ボス・フォンテーヌ氏の案であるので変更する事は出来ないというのが理由であり、フォンテーヌ氏は休暇中であった。 同じくフォンテーヌ氏の案では、銀行ロビー、一般のお客様が外貨の両替や送金に来る窓口の所であるが、これを小さくする事であった。 設計事務所は辟易して何度も図面を書き直し、それでもなお、銀行ロビーは望み通りの狭さにならなかった。 「こんなのありませんよ」と、設計事務所は、それ以上ロビーを狭める事を嫌ったが、最終的には恐らくは東京一の狭さの、フォンテーヌ氏の部屋の十分の一にも満たない銀行ロビーが誕生した。 23階に上がって来た一般客は、エレベーターを降りて分かりにくい通路を大回りさせられ、外の景色を見られるでもなく、狭くて暗い、ベンチも十分にない部屋で待たされる事になったのである。 支店長が言うところの重要な顧客のためには、エレベーターを降りてすぐの所に入り口が用意され、受付嬢の居眠りが見られる様になっていた。 日本の銀行の人達が聞いたら驚くかもしれないが、収益性のそれ程良くない預金、送金、両替部門を出来る事なら切り捨てたいのが首脳部の考えなのである。 変更に次ぐ変更で、設計や機器の発注が決まらないでいる間に、移転日は容赦無く迫って来る。 ディーリング設備、電話設備等に予想外の出費を余儀なくされたために、最初から異常に低く見積もってあった予算は底を付いていた。新しいオフィスには新しい家具什器を予定していたのであったが、買えなくなってしまった。 パリ国立銀行東京支店20年の間に、机、椅子、キャビネット、ロッカーといった家具類は、次々に買い足され、セクション毎に統一された色、形の家具を使っていたが、部門の解体、併合、新部門の創設を繰り返す内、必ずしも同一セクションに同一の机とは行かなくなっていたし、同じチークトップのベージュ側面の机でも、20年前と3年前とのものが同じではない。 オースタン氏はそれ等を嫌った。 謙治は忙しい最中、それらの机やキャビネットがなるべく混ざらないようにしようと試みたが、古いキャビネットだけになるセクションからは猛烈な抗議が出たのは言うまでもない。 BNP証券のキャビネットは全部が造り付け、床から天井まで壁代わりになっているキャビネットだ。 予算が無くなったので、これも解体して運ぶ事になった。 日程的にきついのみか天井の高さが違う、移転先の天井は、10センチ低いのである。 天井部分の部材を購入しなくてはならない。 解体、運搬、部材、組み立て、結構な費用がかかる。 オースタン氏は「予算が無いの」一点張りである。 費用を掛けずに運べ。 物量以外の移転。 自行のコンピューターやパソコン以外にたくさんの通信機器が設置されている。 テレックスはKDDの指定業者しか運べない。 スイフトや日銀ネットはそれぞれの業者が運び責任を持って設置する。 東京・パリ間の光ファイバー通信線の移設、電話、専用線の為のNTTの四百回線も23階に導線しなければならない。 夫々に費用がかかる。 オースタン氏はどの見積書を見ても、予算が無いと大声で怒鳴るようになった。 設計変更によって数千万円が無駄になり、不必要になった間仕切り板数十枚が新オフィスの一室を倉庫として、占拠する事になった。 最終的な図面は、移転日の9月11日を1週間後に控えても未だ修正が出たし。 銀行ロビーのカーペットに至っては色も材質も結局決まらず、元から敷いてあった一般事務室用の薄っぺらなグレーの標準カーペットがそのままになった。 23階の一般事務室も窓に対して45度の角度をぎりぎりになって止めた。 回り道をしたが、複雑な形の事務室は役員室と外務員達の個室群以外には無くなった。 窓に対して45度に並べるのは、誰が言い出したのか知らないが、お陰で時間と労力と費用を大分無駄にした。 電話をダイレクトインにした。 各個人が専用の番号を持ち、直接本人に繋がる「あれ」だ。 新しい名刺には、それぞれの電話番号を入れた。 だから、移転一週間前には、その番号を、その机に配線する為に図面上の個人名が必要になる。 それが決まらないのである。 特に困ったのが10人の外務員達である。 外務員達の個室群は、全部が窓に面している訳ではない。 オースタン氏は、災いを避けて自分でその部屋割りを決めず、外務員達のボスに決めさせる事にし、これまた休暇中の外務員ボスに図面を送った。 やいのやいのと催促の末、返事のファックスが来たのは移転の2日前で、電話工事業者に平謝りして手配は済んだ。 ところが移転前日、謙治は連日の早朝より深夜までの勤務に、いささか疲れきっている時、外務員たちが部屋を変えてくれと言って来た。 阿弥陀くじで決めたのだそうだ。 謙治は既に限界以上の事をしていた。 様々な通信機器、数えきれない業者達からの引っ切り無しの質問。 総てが順調には運ばなかった。 各セクションへの家具の割り当ても済んでなかったし、廃棄処分する書類が四トン車3台分と保管書類300箱が出た。 保管書類には通し番号、課番号を付しリストを作る。 何もかも引っ越しの土曜日の前に済ませなければならない。 ここで図面に名前を入れ直すたった5分の時間的、精神的余裕を謙治は持ち合わせていなかった。 自分よりタイトルが上である外務員たちを、謙治は怒鳴りつけた。 大ボスのフォンテーヌ氏が、引っ越しの前日になって休暇から戻って来て、移転先の図面の事で揉めている。 何という勝手な奴だ。 今更どうしろと言うのだ。 監査部のボス、シンガポール中国人のウオン氏が、フォンテーヌ氏に付きっきりでいる。 かねてから謙治はウオン氏をフォンテーヌ氏の犬であると思っている。 一見人当たりの良いウオン氏は、常に偏見に満ちた諸々の報告をフォンテーヌ氏にしているのである。 この日謙治は、最終的な移動物のチェックの為に、どこへでも出入りしていた。 フォンテーヌ氏とウオン氏は監査部への通路のような所に並べられたソファーで話をしていた。 向き合っている2人のフォンテーヌ氏からは見えない方から謙治は横を通り過ぎようとした。 「ビケアフル」押し殺した小さな声でウオン氏がフォンテーヌ氏に言った。 フォンテーヌ氏は呆けた顔で話し続けていた。 彼らは、謙治に聞かれたくないことを話していたのが明白であった。 移転先の図面をセクション毎に色分けし、なおかつ、机やキャビネットを置く位置に番号を振った。 それぞれのセクションは、与えられた色のラベルに番号を書き込み、運ぶものに貼っておく。 机やキャビネットの中の物は箱詰めし、同じくラベルを貼る。 移転日前日になって捨てる物がどんどん出て来て、運ぶ物も、捨てる物も混在してしまっていた。 運ぶべき机の上に捨てる書類を山積みにして帰ってしまった連中もいた。 謙治は連日終電車で帰っていたが、9月10日金曜日、移転日の前の晩は、夕食も採れず、何時の間にか終電車もなくなっていた。 深夜1時過ぎにディーリング・オプションチームのフランス人が血相を変えてやって来た。 「パソコンはどうした。ペリカンを使いたい。」 オプション・チームには2人のフランス人がいる。 変わり者達なので、他の人達とは業務上必用最小限の会話を交わすだけで、常に仲間はずれにされていた。 ジーンズに汚いシャツ。 風呂もいつ入ったのか、髭も汚く伸びている。 しかし、彼らは働き者なのである。 謙治が朝7時に出勤すると、彼等2人は殆どの場合来ている。 夜も結構遅くまでパリ本店とやりあっている。 営業成績も上げているらしい。 電話でのやり取りが乱暴だとか、言葉が汚いだとか言われて、回りからは気違い扱いされているが、謙治は不思議と彼等に好感を持っていた。 この夜もパリからの重要なデータがペリカンを通して入っているから取りに来たのだと言う。 ペリカンとは、パリ本店と結んだパソコン通信の一つである。 パソコンは既に全部梱包してあった。 連絡事項で、そのような事は伝達されている訳なのだが、業務以外には目が向かない彼等の事だ。 それにしても、どのように引っ越すと考えているのだろう。 辛うじて残っている電話とファックスは、まだ生きていたので、データをファックスで貰うことにして、一件落着したが、落着する迄に、貴重な1時間を無駄にしてしまった。 午前4時を過ぎると、疲れや眠さは感じなかったが、頭の回転が極端に落ちて、記憶力が無いに等しくなってしまった。 少しでも寝なくてはと応接室へ行ったが、ソファーは当然の事ながら、あの泡の入ったビニールで梱包されていた。 床へ寝そべってみたがちょっと無理のようであった。 タクシーで帰るのは勿論構わないのだが、往復の時間が惜しかった。 9月11日土曜日、移転日第1日目である。 天気は良好である。 東京駅売店でパンとミルクを買って来た。 顔は洗ったが髭は剃れなかった。 郵船ビルの洗面所は広く、トイレもウオシュレットが付いていて気持ちが良い。 移転先にはそれが無い。 夕べは寝たのかどうか自分でもよく分からない。 頭は朦朧としているが、土曜日早朝の丸の内は気持ちが良かった。 運ぶものの優先順位を、十分に打ち合わせてあったのであるが、運ぶ段になると現場の人達はそんな事お構いなしだ。 移転先では設置と調整の為に、パソコンその他の機器類を待っている。 30人程いる作業員達は、決して統制が取れているとは思えなかったが、彼らなりの段取り、階数順、部屋順で運び始め、謙治が頼んでも聞き入れ様としなかった。 午後になると、作業員の間に不満が出始めた。 図面の通りに物が置けないと言うのである。 移転先に居る人の指図で機器類の置場所が変えられているという。 大きなフランス人がそうさせているのだそうな。 フォンテーヌ氏に違いない。 彼はきのう休暇から戻って来ていた。 何か変な事をしているに違いない。 総務部には本来、鍵のかかる部屋に設置しなければならない機器が幾つかある。 テレックスがその一つで、重要なメッセージが常にプリントされている。夜は誰も触れない方が良い。 スイフトは夜間止めておく事が出来るが、本店の指導では鍵のかかる部屋に設置する事になっている。 ファクシミリも総務のものは機密を要する事が多い。 だから鍵のかかる小部屋を作り、それらをきちんと整理する事にしていた。 ところが大ボスのフォンテーヌ氏はそれら全部を小部屋から出してしまい。 監査部のボス、中国系シンガポール人、ウオン氏の為の部屋にしたのである。 何たる暴挙であろう。 どれだけの苦労をして配置を、キャビネットの置き方を、パソコンの向きを考えた事か。 ファックス、テレックス、スイフトの為の電源や通信線の工事をやり直さなければならない。 だいたい、ウオン氏に個室が要るとは一度も聞いたことがないし、オースタン氏達も知らない事であった。 これで何となく分かったような気がした。 フォンテーヌ氏とウオン氏が対話中に謙治が通りかかった時、あんに謙治の接近をフォンテーヌ氏に告げた、あのウオン氏の態度が。
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