2006年05月23日(火)
ボデーラングウェッジ?
俳優の松田優作にとくに興味があったわけではないのですが。彼の一挙一動の、手先にまで漲る存在感はなんだろう? と、そんな?マーク が、いつも私のあたまの上に、???(3個)くらい並んでいました。彼の、体型とか、歩き方とか、しぐさとか。たとえば、指先をちょっと動かすだけで、周りの気を吸引してしまう。そうしたことの、不思議さ、を感じていました。身体、は、ものを言います。そういうのって、ときにふつうの人にもあって、見とれてしまうことがあるのですよ。
そんな気持ちで観たのが5月16日(火曜日)放送のNHK教育テレビ番組──「知るを楽しむ」でした。第3回目のタイトルは「イノセントデビル」。リリーフランキーさん出演の、私のこだわり人物伝 : あにきの叫び声 ー 松田優作論、というやつです。
俳優・松田勇作は1989年11月に亡くなった後17年を経ても魅力は衰えてないどころか、若いファンも増えているそうです。リリー・フランキーによると「日本の男は、松田優作が棲みついた男とそうでない男の2種類にわかれる」のだとか。
彼は、その番組で、映画「ブラックレイン」での主役のマイケル・ダグラスをしのぐ松田優作の演技=「悪の純度」についてコメントしてました。ブラックレインで松田優作が演じた佐藤という人物は「100%悪!」を表現していたと。振り向くだけで怖いとも。しかし、怖いのに綺麗だ。そこには、悪の美しさ、美しさの狂気、がある──と。
彼は言います。松田優作の中の邪気・邪念は普通の人間より圧倒的に少なかったに違いない。彼にはそういう純粋さがあった。 だから、人の邪気にも敏感で。周囲がとても怖いものにも見えていただろう。許せないものも多く、狂気というのが本当にわかる。だからこそ、悪を演じるときには、純度の高い真っ黒な悪(=イノセントデビル)を演じることができたのだということでした。
松田優作には、映画・ブラックレインの後にハリウッドからもお誘いがあったそうです。が、じつは、日本でやりたかった映画がありました。ブラックレインが公開された1年後に松田勇作が亡くなってしまったために、それは、実現することもなかったのですが・・・。
彼が出演するのを願ったその映画のタイトルは「荒神(あらがみ)」。シナリオは「松田勇作・丸山昇一・未発表シナリオ集(幻冬舎)」に所蔵されています。原作は中上健次の小説「蛇淫」の中にある短編小説の「荒神」です。底知れぬ邪気を持つ男が殺人を犯した後に、行くあてどもない旅に彷徨うという物語です。
松田優作が──脚本家の丸山昇一のところにその本を携えてきて提案したそうです。「荒神」の中の1行 ──
「おかしくなった。わらった。涙が出た。心臓がむき出しになっている気がした」
という箇所に赤線が引かれてたと言います。そこを指して、「このシーンをやりたいんだよ」と言わはったと。松田優作の思い入れは相当なものだったようです。そして、彼は──
「丸山、よく聞いてくれ、おれはこれをやる。やったら、今まで築いてきたことが全部なくなっちゃうよな」──とも言いました。
そ。そうなのかい?
「俺が、(その主人公の)ゴロなんだよ。そのように出されると困っちゃうんだよ。演じ分けられようがない」── と。と。と。な〜るほど。
中上健次は、彼について「松田優作追悼特集」(季刊・映画芸術・1990年春号)の中で次のように語っています。
「直に逢ったことがなくとも、確実に何かが引き合っている、つながっていると思う存在がある。60年安保の唐牛委員長がそうだ。・・・・・・ 彼の人、松田優作もそうだった。彼とは会った事もなければ、話した事もなかった。だが、彼に死なれてみて、私も彼も八犬伝の一人のように同じ玉を持って生まれて来た者ではなかったか、と思う」──と。
中上健次は、彼の訃報を耳にする10日ほど前に、セゾン劇場での戯曲の主役として、松田勇作を希望していたようです。──
「あの存在感があって中世のバサラが表現できる。・・・美を固定したものと捉えるのではなく、揺さぶり、へし折る存在感。美しいと言われた紅葉が燃えて立つぐれんの炎を、松田優作は狂気すれすれの眼でにらむ」
と書いています。 そっ[=ロ+卒]啄同時ではあったのでしょう。ですが、映画「荒神」が産まれることはありませんでした。
・・・・
mmmm...解説ばっかり、書いてしまったじゃないの。
さて、
NHK教育テレビ番組「知るを楽しむ」// 第3回:イノセントデビル」についての感想、その他雑感は以下。
1.
「荒神」のストリーを映ずるアニメにとても惹かれました。無声映画の雨降り画面みたくに作られた静止画ショットのアニメの、影絵のような、紙芝居のような画面には、詩情がありました。静止画のために、ワンショットが長い。情報量も少ない。そして、暗い。そのために背後に潜む、何か、を、深く感じとることがでるのですね。松田勇作が演じる役の臨場感をじつにうまく伝えていて、どきどきしました。
原作の魅力。→ 原作をさらに輝かせるシナリオ。→ そして、その脚本をさらに効果的に見せる映像。── と、すべてがすばらしいものでした。プロの作業は、与えられた課題を各々がさらに発展させてみせなければなりません。この「影絵」のようなアニメーション、は、シナリオのもつ詩情をさらに発展させていて、とても優秀だと思いました。
最後の場面なんて、原作よりもシナリオのほうが(ある意味で)印象的です。(脚本家の)「荒神」についての解釈もそこに入れられています。(以下は未発表シナリオ集より)
66.坂道
[白浜温泉]の、薄汚れたアーチ。 [湯の花有りマス]の、貼り紙。
深夜の石段の下、家の前で水をまく老婆がいる。 その石段の頂上に、── スッと浴衣客が立った。 ゴロである。 その澄みきった眼差し。 ゴロ、遙か下に老婆を見下ろして、ゆっくり下りてゆく。 カラン、コロンと下駄の音が響く。 六尺にも余る大男が下りてゆく。 一人の信者もいない神が …… 下りてゆく。 (FO : フェイドアウト)
ゴロの声 婆ちゃん。…… 水を一杯もらえませんか。
完
今回は、原作である中上健次の「荒神」(「蛇淫」所蔵。講談社)と「松田勇作・丸山昇一・未発表シナリオ集」(幻冬舎アウトロー文庫)の両方を読んでみました。シナリオには、原作とはまた違う詩情があるのだということが改めてわかりました。
脚本家、丸山昇一の曰く──「荒神」のシナリオは松田優作との間の「共犯関係」・・・によって創られたそうです(以下)。
「優作さんの話すことは、通常の生活では発想できないような非現実と幻想の世界をかけめぐる。普通に普通に生活して、その余韻もさめない内の、身も心も浮遊するような超現実──。例えば、ごく普通の登場人物と思っていたら、実は血は緑色で、眼は他人の眼、とか。そしてサハラよりも乾ききった人間の関係」・・・(未発表シナリオ集より)
松田優作の、鋭角的な感受性がよくわかります。
「丸山、俺たち、ありきたりのことをフィルムにしちゃダメだ。飛ばなきゃな。だけど、ごく普通の生活をとらえておかなきゃ。非現実の世界に跳んだって阿呆みたいなもんなんだぜ」
と、松田優作は言ったそうです。
「非現実の世界に跳んだって阿呆みたいなもん」・・・か。
日常の中の普通の人に潜む邪気、邪悪のほうがもっとドラマチックで深い、と、リリーフランキーさんもコメントしていました。些細なものの中にこそ、重大なものが潜むのですね。日常の中の、ふつうの人間が持つ邪気がそうです。そういうものこそ(=隠されてる分だけ)根が深い。
ところで。
2.
主人公は、自称・消化器のセールスマンです。そして、「消化器のセールスですけど、消化器、いらないですか」などと、でまかせをほざき、適当な家に立ち寄ります。さて、この、(扱うものは何でもいいけど)消化器!という場合の、商品コンセプト、とはなんでしょう?(消化器、という言いわけ、て、なに?) 昔は、ゴムひものセールスというのも、あったんですよね。消化器てのはシンボリックですが。ほんとは、みんな、やってるんですよ、こうゆう言いわけ?(というか、何というか)。それが、とても印象的でした。
次。
3.
原作では、小鳥の鳴き声がしばしば出てきます。が、これは、シナリオにはありませんでした。以下、原作から、引用します。→ A.「中ほどのしもた屋に《まんじゅう》と貼り紙がしてあった。ネコのような老婆が、黄色のセキセイインコの相手をして、座っていた。小鳥の鳴き声が、彼には空耳のように響いた。声が呼んでいると思った」// B.「小鳥の鳴き声が家の向こう側から聞こえてくる」// C.最後から6行目(最後まで、これですよ→):「店は閉まっていた。セキセイインコの鳴き声がする。声の方へ彼は、歩いた」・・・などと書かれています。そうしたものに気を留めるデリカシーを持った殺人鬼はこわいです。うまく書いてるな。
さて。
4.
原作について。── 松田勇作 & 丸山昇一の未発表シナリオからはちょっと離れます。
(シナリオでの解釈はとりあえず措くとして)この小説での「荒神(あらがみ)」とは、何でしょ? 昔からの荒神(こうじん)信仰を意味してるわけでもないようです。あるいは、「あらぶるかみ」? もちろん、ゴロが「荒神」なんだろうけど・・。別解釈をひとつ↓。
中上健次の原作「荒神」は、他にも、「竜神と朱蓮華」(公開時タイトルは『ONANIE 乱れっぱなし』)上野俊哉監督作品 とかいうピンク映画にもなってました。でも、この作品については、「見ていてつらい」とアマゾンのカスタマーレビューに書かれてました。・・・んだろうよ。
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