絵梨の日記
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太宰の『パンドラのはこ(むずかしい漢字)』。 高校の頃、挫折した作品だ。 今、映画化の折、ふたたび脚光を浴びている。 あの頃は、あの、なんでもない語りが痛かった。 今は、おなじような曲折をへてきた者として、 それなりに理解あって読める。(まだ数行のみだけれど。。)
浪人のときに、そして、留年を経て、 つかんだ自由はやりきれなかった。 とくに、単位のひとつの取りこぼしのために、 ふつうの人生とスケジュールからはみだした、ふがいなさ。
そのことを、ぞくぞくと思い出した。 あの頃の自分がこれを思い出していたなら、 どこかで読んでいたなら、きっと違っただろうし、救われもしたろう。
今となっては叶わないが、でも、今でも救われる思いがする。
暗くなりがちな作風の私が、いつも念頭にすくなからず置いていることがある。 「救いのある文章にすること」 それが、どんなものなのか、はっきりと定めているわけでもなく、 どんなものが理想か、抱いているわけでもないが、 ただ漠然とであっても、ずっと思ってることである。
今日は、これから麦茶で喉を潤しながら、ぼつぼつ執筆にいそしもう。 急がなくていい、慌てなくていい。今、できることから、着実に進もう。
太宰からはなれてしまったけれど。 水無月のはじめより
絵梨
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