自宅のPCを完全に解体した。これで自宅ではPCを触れない環境になった。理由は別に大したことじゃない。どうもネットに時間を食われすぎて、なんにもしないからだ。 基本的に無駄とか無為とか大好きなのだが、なんぼなんでも、ヤフー地図を見て、地名をウィキペディアで調べて、それで10時間が経過して眼精疲労で翌日死んでるとかは無為にもほどがある。それは無為というよりもはやただの馬鹿なんじゃないか、って気もする。 意思の薄弱さには相当の自信があるので、とにかくPCがあること自体がだめだ。仮にネットにつなげないとしよう。今度はえろげやる。積んでる数を考えればいいから崩せよ、という話でもあるのだけれど、どっちにしろ翌日は眼精疲労で死亡。 人間の衰えは目から来るというけど、目はほんとに弱くなった。強度の近眼であるため、老眼っていうかたちではなかなか来ないんだけど、ちょっとディスプレーを長時間見てると、焦点がなかなか合わなくなってくる。なにより翌日の頭痛。これが笑えるレベルでひどい。 それともうひとつ。俺はとにかくアウトプットしすぎる。 子供のころからよく「おまえはてんつきみたいな子供だ」と言われてきた。ところてんを作る道具のことを「てんつき」と呼ぶらしい。実物は見たことがない。これが比喩として用いられた場合、なにを意味するかというと、ごはん食べたらすぐうんこする。事は俺の優秀な消化器官の話だけではない。外部から刺激を受ける。すぐうんこという名の文章を排泄する。そのスパンが極端に短い。いわゆる脊髄反射だ。 人は外部からの刺激を自分なりに解釈する。表現する人というのは、解釈した結果をなんらかのかたちで出力しなければならない種族だ。なぜ出力しなければならないのか、ということは措いておく。とにもかくにもそうしなければならない。あえて機械的に考えるのならば、その場合における人間というのは、単なるフィルターだ。表現方法の巧拙というのは訓練でどうにもでもなる(もちろん限界はある)。表現された結果のものが判断されるとするならば、それは「どんなフィルターであるか」ということを判断されている。 俺は、フィルターとしては「変わっている」という点において比較的優秀で、それゆえに外部からの刺激を即座に出力に変換しても、それなりに読まれ続けることが可能だった。 フィルター。 そうはいっても、人間は、少なくとも自分自身にとってだけは単なるフィルターではない。俺は効率を上げるあまり、自分自身を単なるフィルターとして扱いすぎたのだと思う。 刺激に対する反応が、人間のなかに貯留されていくならば、それはその人のなかで発酵する。もちろん腐敗といってもいい。同じ現象だし、それが乳酸菌たっぷりの有用な発酵食品であるのか、腐っちゃってかわいそうなことになった食いもののなれの果てであるのかは、それを作った人間ではなく、摂取する人が判断する。俺はそう信じる。現実はしらねー。 で、少し発酵させてみようと思った。 正直にいえば、残り時間の問題もある。前にも書いたように、別に死ぬまでになにを為さなくとも、おそらく俺は後悔しない。ただ、まああと10年くらいは死なないだろうなーと考えるときに、そのうちの何ヶ月かくらいは、アウトプットせずにひたすら自分のなかになにかを貯留する時間というのを作ってもいいんじゃないか、と思った。どうせ貯留ったって、すぐに飽きてなんかは吐き出すんだろうけど、そのとき吐き出すものは、いままで自分が吐き出してきたものとは違うものなのではないだろうか、そういう淡い期待を持つ。
で、PCを撤去して数日が経過したわけだけど、よく「ネットを使わなくなると時間が余る」っていう話を聞く。 ……で、余ってるかっていうと……なんか、ぜんぜん余ってない。本読んで、必要なところをメモったりまとめたりして、気がついたこととかをてきとーにノートに書いて、そんなことをやってるうちに、またたく間に時間が過ぎる。それもまあ、なんていうか、あたりまえといえばあたりまえの話ではある。ネットがなかったころ、あんたはなにやってたんですか、といえば、そりゃ本読んでなんか書いてたわけだ。 こう考えると「書く」という行為だけは、絶対に自分から切り離せないものらしい。問題は「公表するか否か」という点で、公表すればそれが俺にとってアウトプットだし、そうしなければアウトプットではない。 少しは自分を制御しようと思う。駄々漏れは、いつか自分を損なう。 うん。なんか、わりと悪くない着地点だと思う。
そーいや、本読んで、ノートに要点まとめてとかって、これつまり勉強じゃんとか思った。俺はどうやら勉強を始めたようです。ポストイットというものが必要とされる理由が初めてわかりました。ものすごいいまさら感。
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