37.2℃の微熱
北端あおい



 

ヴェイユの言葉が響く日はヴェイユを読む。


2005年12月18日(日)



 写真展

横須賀さんの写真展に行く。
ソラリゼーションで貌が半分鎔けている女性の写真になぜか惹かれて、
ぐるっと巡りおえたあと、しばらくその前で佇む。

わたしが怖がる恐怖には貌がない。
もっとも貌があれば、正体がわかるからそれは恐怖ではないのだけれど。



2005年12月17日(土)



 古本買い

今日は五反田古遊会。
会社のやすみをぬって、足をはこぶ(と、いっても会場は会社の裏だ)。

ぐるっとひとまわりしたあと、編集部のひとたちに会う。
だいたい趣味が似通っているので、つかずはなれずの距離を保ちつつ、
ちゃっかり古本指南はしてもらう。

図書館では何度も借りたけれど購入していなかったミルボー『責苦の庭』(国書刊行会)、エビング『異常性愛の心理』(ヒューマンライフ社)は図版に惹かれて、最期にたしか発禁本だったアラン・Z・ノールマン『十七歳』(二見書房)を購入。

また昨日は朝から図版探しで上智大学図書館へ。
チャリティサークルが恒例のバザーを開いていて、
ちょっと覗く。
古本がハードカバーで二百円、文庫が五十円くらいのお値段。
大學教授がいらなくなった蔵書をバザーに寄付したりすると、けっこう高価な本やおみかけしない学術系のものがあったり、洋書も結構な数があったりする。
以前、ディックの作品だから、と手にした中田耕治訳『宇宙の眼』はあまりみかけないものとのこと。なぜかそういうものがあって楽しいのです。
今回は、年末だからか本の冊数は少なかったけれど、
原民喜『夏の花』、モラヴィア『深層生活』、ベアトリス・ディディエ『Le Journal intime』の三冊を拾い上げる。

ふだんは日常の細々としたことを日記には書かないのだけれど、こうかいてみるのは『Le Journal intime』をぱらぱらと読んだからなのでした。

2005年12月16日(金)



 とける


一のなかへ溶けこんでいく瞬間の恍惚感。
世界とひとつになる全能感覚。
それは個でなければ何度も何度も味わえないもの。
個であるのは美しい必然。だから、個として在りつづけたい。
一から幾たびも身を引きはがすたびに、心も身体もばらばらになってしまいそうなく
らいの極限の苦痛を味わってもそれは二が一になるときの魂の止揚感覚や恍惚感から
くらべるとなにほどのこともない、ことを知っているのだから。
だから、いつもいつもその瞬間を熱望し、それを味わうためだけに、そのためだけに
生きようとおもった。そのような瞬間があるのならば、生きていてもいいと思った
(過去形、ということは、そういう瞬間に奇跡的にもう巡り会っている)。
生きながらにして、Thanatosへむかう欲望をぎりぎりのところで回避するために。
街をあるきながら、魂が溶ける瞬間をさがし求めている。

2005年12月14日(水)



 しばられたいのでは

しばられたいわけではないのです
抑圧されたいのでもなくて
自虐的にはなりたくない
すくわれたいというのはとても傲慢な気がする

ただ、うつくしさにふるえる瞬間にめぐりあいたくて、
もういちにちいきのびる出来事がほしかったのです
ほんのもうすこし強いちからでここに在らしめられたかっただけ
つなぎとめてもらいたかっただけ

ありがとう
薬よりよく効いています。
だって、微睡みかけていたなにかが、また醒めようとしているのですから。

2005年12月12日(月)



 

愛と畏れは、その源泉はおなじものかもしれないと
おもい、そうだったらどうしようとおもう。
だって、もっとも畏れているものを、いちばん愛している。
畏れがないものなんて、愛せない。
でも、そのふたつが、おなじものだとしたら、それは
喜びでもあり、恐ろしくもある。


2005年12月11日(日)



 おねがい

おねがいです、というと
それはだめ、どうしてもだめ、という。
ほんのすこしでいいのです、おねがい、といっても
そのひとはがんとしてくびをたてにふらない。
忘れないよう、見るたびに思いだせるよう、
きずをください、といいながら果物ナイフをわたそうとした。
なのに、それはしまいないさい、といわれてしまう。
それでも、望みをすてきれずにたちつくしていると、
そのひとのてがナイフをとりあげてわたしのかばんのなかにしまう。
じぶんをおさえるためにほしいのです、
もうくすりではきかない気がするのです、というと、
じゃあ別の方法で、とそのひとはいってとてもやさしいやりかたで、
傷をつける。
そうしてもらっているあいだ中、そのひとはほんとうは
そうしたくないのだというのが苦しいくらいにつたわってくる。
後悔と自分の欲望にひき裂かれて、泣きそうになる。
そのひとをこまらせたくなくて、もらうはずの傷だったのに、
よけいに酷いことをした罪悪感。

傷跡は、一日たったらほとんどきえてしまったけれど、
テープを再生するかのように記憶を何度も何度も巻き戻す。
罪悪感が擦り切れるまでずっと。

2005年12月10日(土)
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