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■ 言葉の罠
その2
わたしの言葉の中に、『のようなもの』だの、『とかいうもの』だのという単語が頻繁に出てくるようになった。文末は『かもしれない』で締めくくられた。紙に書くと、あらゆる単語をカギカッコでくくってしまうか、あらゆる単語の前に『わたしの言う』をつけなければ不安になる。わたしの言葉で言えばわたしはわたしの言う『天才』かもしれなかった。世間一般から見ればママにとってパパは『かれ』だったかも知れなかった。わたしと『まりかちゃん』はともだちなのかも知れなかった。日本は『しあわせ』なのかもしれなかった。 わからない。 もうなにもわからないのかも知れない。 ほんとのものはなにもない。『ほんとのもの』があるだけだ。 (木地雅映子『氷の海のガレオン』講談社、1994)
言葉の罠に引っ掛かっている。
「あなたはどうしたいのだ」と、聞かれることがある。 でも、人は、対社会における「わたし」とか対家族の「わたし」とか、対友人Aや対友人Bの「わたし」とか、いくつもいくつもに分裂している。だから、なにをどうのこうのしたい、というまえにその主語である「あなた」が、それらのうちのどれを指しているか確定できないと、どう答えていいかわからなくてとまどってしまう。 「あなた」という言葉だけだとすごく曖昧で、中途半端なのです。 この「あなた」という言葉をどの時間と空間にリンクすればよいかわからないからです。 まずどうのこうのしたいの主語を決定することから考えないと相手が投げてくれた会話を返せないのです。 だから、「なになににおいてあなたは…」とか「これこれに対してあなたは…」といった言い方をして貰えると、フリーズしなくて済む。頭の中で必死に計算しなくて済むのです。 「あなた」という言葉に引っ掛からないで済むのです。 でなければ、「」でくくった言葉しか、理解できなくなっています。でも、こんな言い方を他人に要求する人っているんでしょうか?
でももしかしたら、「わたし」はそういう人「かもしれない」のでした。
その1
やったぁ! ついに恒常的に日記にログインできるまでには接続状態が復帰いたしました。 連休中、いじっていたかいがあったわ。 メールはかろうじてOKだったのだけれど、この日記帳はなかなかログインできなかったのだ。相性がわるいのではないだろうか!? と危惧していたけれど。 ということで、接続できる限りは書きます。
2004年07月22日(木)
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