37.2℃の微熱
北端あおい



 『寿司とマヨネーズ』

会社で、そういう話をしていたわけでもないのに突然「君はSMが好きなのかね?」と聞かれてしまった。『O嬢の物語』とか『閉ざされた城の中で語る英吉利人』とか、その辺りの物語を知っている人になら、すぐ答えられるのだけど、そうでなければ相手がSMと言ったときにどのような想像をしているのか掴みかねるので、ちょっと返答に困る。それにSMって一言でいうけれど、ものすごくその範囲は広いのだ。お約束の縄や鞭や蝋燭で遊べば良いというわけではないし(そういう場合もありなのは知っているけれど)。今度誰かに聞かれたら、こういうことでお薦めしたい本ではないのだけれど、水月マヨ『寿司とマヨネーズ』(バジリコ、2003)でもすすめてみようかな。
この本の感想を聞いたら、その人が今現在SMに対して持っているイメージが少しは、わかる気がする。

2004年06月30日(水)



 言葉の罠

その2

 わたしの言葉の中に、『のようなもの』だの、『とかいうもの』だのという単語が頻繁に出てくるようになった。文末は『かもしれない』で締めくくられた。紙に書くと、あらゆる単語をカギカッコでくくってしまうか、あらゆる単語の前に『わたしの言う』をつけなければ不安になる。わたしの言葉で言えばわたしはわたしの言う『天才』かもしれなかった。世間一般から見ればママにとってパパは『かれ』だったかも知れなかった。わたしと『まりかちゃん』はともだちなのかも知れなかった。日本は『しあわせ』なのかもしれなかった。
 わからない。
 もうなにもわからないのかも知れない。
 ほんとのものはなにもない。『ほんとのもの』があるだけだ。
(木地雅映子『氷の海のガレオン』講談社、1994)

言葉の罠に引っ掛かっている。

「あなたはどうしたいのだ」と、聞かれることがある。
でも、人は、対社会における「わたし」とか対家族の「わたし」とか、対友人Aや対友人Bの「わたし」とか、いくつもいくつもに分裂している。だから、なにをどうのこうのしたい、というまえにその主語である「あなた」が、それらのうちのどれを指しているか確定できないと、どう答えていいかわからなくてとまどってしまう。
「あなた」という言葉だけだとすごく曖昧で、中途半端なのです。
この「あなた」という言葉をどの時間と空間にリンクすればよいかわからないからです。
まずどうのこうのしたいの主語を決定することから考えないと相手が投げてくれた会話を返せないのです。
だから、「なになににおいてあなたは…」とか「これこれに対してあなたは…」といった言い方をして貰えると、フリーズしなくて済む。頭の中で必死に計算しなくて済むのです。
「あなた」という言葉に引っ掛からないで済むのです。
でなければ、「」でくくった言葉しか、理解できなくなっています。でも、こんな言い方を他人に要求する人っているんでしょうか?

でももしかしたら、「わたし」はそういう人「かもしれない」のでした。


その1

やったぁ! ついに恒常的に日記にログインできるまでには接続状態が復帰いたしました。
連休中、いじっていたかいがあったわ。
メールはかろうじてOKだったのだけれど、この日記帳はなかなかログインできなかったのだ。相性がわるいのではないだろうか!? と危惧していたけれど。
ということで、接続できる限りは書きます。

2004年07月22日(木)



 占い師

占いを生業としている人と会う機会があった。
生年月日を聞かれ、突然占われてしまう。
恋愛運と結婚について。

「恋愛」や「結婚」について占ってくださいと言った覚えはない。
ただ、自動的にそれらの項目を相手が選び、占ったのがとてもショックだった。
占いは十種類あれば、十通りの答えがでるもの。
科学のようにいつも答えはひとつというわけではない。
だから、そのように非常に曖昧なものを信じることはない。
信じる根拠を、わたしは持たない。
だから占いの結果がどうあれ、楽しむことはできる。
失恋するだろうといわれれば、必死で対応策を聞き出そうとしたり、いい出逢いがあるといわれれば、多少オーバーリアクションで喜んだりはできる。
そうしているふりでしかないのですけれど。
占いは、(根拠がないゆえに)しょせんエンターテイメントにしかならない。

今回、自動的にそれらの項目が選択されてしまった原因は、ひとえにわたしの身体、わたしが宿る「器」が「女性」であるということによるのだろう。
そして、それは占い師であるその人が、「女性」を占う場合はこういった選択でOKなのだ、と経験をつみ、そこから引き出された結果なのだ。
では、別の項目であればいい? 
たとえば、「仕事」運とか「人生」の総合運とか?

違う。
問題なのは、固定観念なのだ。
それに回収されたことにとてもとても違和感をおぼえてしまったのだった。

2004年07月23日(金)



 四季

「生きていることが、どれだけ、私たちの重荷になっているか、どれだけ、自由を束縛しているか、わかっている?」
「生きていることが、自由を束縛している? それは、逆なんじゃない?」
「いいえ、生きなければならない、という思い込みが、人間の自由を奪っている根元です」
「でも、死んでしまったら、何もない。自由も何もないじゃないか」
「そう思う?」彼女は微笑んだ。
「だって、それは常識だろう?」
「常識だと思う?」
(森博嗣『四季 春』講談社、2004 )

「君はいったい何がしたいのかね?」
スワニィが押し殺した声で聞いた。
「私はただ、私の生を見たいだけ」
「生を見るとは、どういうことだ? 自分の人生ならば、誰でも見られると思うが」
「貴方が覗かれる顕微鏡の中に、貴方の生がありますか?」
「人間の神秘はあるよ」
「貴方の神秘は?」
スワニィは目を細め、難しい表情で止まった。
(『四季 冬』同上)

その問いに答えがないのは、わかっている。
生きてここに在ることは、大いなる矛盾だ。
だが、神にも等しい天才・真賀田四季は微笑んでいう。
その矛盾は綺麗だ、と。
「生き」ているという薄いガラスのような
足場の上に積み重ねられていく日々の出来事。
立っている場所はあまりにも脆弱で希薄で、奇跡的。
いつ崩れ去ってもおかしくはないというのに。
この、矛盾を多くの人はどうやってやりすごすのだろう。
例えば、世界があと5分後に消滅するとしても、不思議はないのだし、
同時に5分前に出現したのだとしても証明のしようはないのだ。
どちらでも違いは、ない。あってもわからない。
どちらであっても、なぜそうあるかのその理由も根拠もない。
ただ、終わらずに在る。

……いつか終わるだろうと思っての二十数年はさすがに長い。
それでもこの矛盾は綺麗なのでしょうか。

「永遠に対する希求でもなく
終わらないことに対してだけ
そう、
終わらない。
絶対に終わらない   でも

もう やめてよ   ねえ?」
(岡崎京子「終わらない」『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』平凡社、2004)

2004年07月28日(水)



 『聖母エヴァンゲリオン』

「人間が生きるということ、生きのびるということ、それは端的に暴力に他ならない」

(岡真理「〈人類補完計画〉あるいは生きのびるということについて」
『「エヴァ」の遺せしもの』p57.より)

やったぁ! 仕事帰りの三十分、終電ぎりぎりで寄ったブックオフで、小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス、1997)発見!! 嬉しいことに帯付きです。
本屋で一度、在庫切れと言われてしまい、古本屋でさがしていたのだけれど。
以前は、古本屋でたくさん見かけたのに、いざ読みたいと思ったときはどこにもみあたらなかったのだ(でも、ネットで見る限りまだ新刊で入手可?)。
ついでに、100円コーナーで岡真理が寄稿していたのに惹かれて、『「エヴァ」の遺せしもの』(青弓社、1997)も入手。

会社のデスクトップがまた綾波レイにもどりそうです(今はレイトン卿の「燃えあがる六月」)。
にしても、「なんで綾波やアスカのコスプレしないのー?」
というツッコミをいただける職場なので油断できず。

*岡真理(おかまり)
現代アラブ文学、第三世界ジェンダー論専攻。
京都大学大学院人間・環境学研究科教員。
主著『彼女の「正しい」名前とは何か』(青土社、2000)
  『記憶/物語』(思考のフロンティアシリーズ、岩波書店、2000)
  『テロ後 世界はどう変わったか』(岩波新書、共著)

『記憶/物語』は、エッセイとして読めば映画や文学への読み込みが出色。

★当為と権能の語法――岡真理『記憶/物語』を読む
 岡真理の岩波のブックレット(岩波書店、二〇〇〇年)への書評。岡真理は前項の本の中で、上野千鶴子を猛然と批判していた。アラブ、女性、文学、と「〈他者〉のスリーカード」を揃えた岡の盤石の布陣は、おそらく現在「無敵」だろう。しかし、「不敗の構造」は、たやすく「腐敗の構造」(@ATOK9)に転化する。岡の語法を領するある種の「クリシェ」に、私は息苦しさを感じてしまった。しかし、語法への批判は、本当を言うとあまりフェアではない。書いた後、反省。
内田樹『ためらいの倫理学』解題より

2004年08月24日(火)



 Topaz

村上龍「トパーズ」の主人公であるSM嬢は、この指はトパーズが似合う、
という店員の一言で指輪を衝動買いするが、その後、仕事でプレイをしたヤマギシという男の部屋に指輪を置いてきたことに愕然とする。
仕事とはいえ、彼のSMプレイには耐え難いところがあって、もう二度と会いたくなかったのだ。
だが、彼女は勇気を奮い起こしてドアを叩き、トパーズの指輪を取り戻す。

でも、わたしは、「あたし」がトパーズを指に嵌めて、うっとりしていたようにではなく、むしろ何も嵌めないままでいつも裸にしておきたい。
たとえ、嵌めたとしても次の瞬間にはそれをはずして、遠くに投げているようでありたい。

ある説によると、トパーズの語源はギリシャ語の「捜し求める(Tapazos)」に由来するそう。また、プリニウスは、紅海上にあるゼベルゲート(セント・ジョン島)という島をトパゾス、トパシオンと呼んでいた。
その島が、霧に覆われるため探すのに苦労する「幻の島」と呼ばれていたからだとか。

嵌めたとたん、完全に充足できてしまうものに今巡り会っているとしたら、
それはおそらく幻だと思う。わたしが探し求めているものは、手元にあったり、置いておいたりできるものではないのだから。
騙されるのはもうちょっと先でいいのだ。

2004年09月08日(水)



 手塚治虫『メトロポリス』

昨日の日記のまちがいを一箇所訂正、ご指摘していただいた、某氏に感謝です、本当にありがとうございました。

慣れないタイプの電話の応対に、ちょっとぐったりしたのでいつもよりすこしはやく帰宅。普段よりはちょっと時間があって、視覚的刺激が欲しかったので、本を読むかわりに手塚治虫原作の『メトロポリス(りんたろう)』 を見た。
けど…、
冒頭火事のシーンの消防ロボットの動きがとってもムシっぽくていやあああ(涙)!
フィフィの手の動きもなんだか触手っぽくていやあああ(冷汗)!!
でもでも、この子って、村上隆のキャラクターみたい! なんでロビタじゃないのかな? ちょっと不満 。このあたりで、即ビデオを止めました。
ああ、ああ、『メトロポリス(F・ラング)』や『ブレードランナー(リドリー・スコット)』や『イノセンス(むろん押井守)』で口直ししたいっ。そういえば、映画の中の近未来都市の表現がすきだといってたH氏に『メトロポリス(F・ラング)』を勧めたことがあったけれどどうだったんだろう?
聞いてみよう。

2004年09月29日(水)
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