37.2℃の微熱
北端あおい



 『尼僧の恋』

「何度も気が狂いそうになりました。
そのたびに神様にお礼を言ったのです。狂人は罪を免れるといいますもの……
                                        ―1856年2月8日」

「神様!神様!神様!……わたしを死なせて!地獄に突き落として!
激しい責め苦を身に受けるときの陶酔感、燃えるような歓びを、あなたは知るはずがありません……人を傷つけることができないゆえに、自分を傷つけてゆくのです……
                                           ―8月26日」

※「」部分、いずれもジョヴァンニヴェルガー『尼僧の恋』(扶桑社ミステリー、1994)より引用。


『尼僧の恋』を読みました。

マリアは汚い。汚くて、でも美しい。
修道女であることを理由に、自分の恋する想いを神への愛へすり替えてしまうマリアは汚い。それは汚い。誰かを好きになるのは罪ではないはずなのに(たぶん)。誰かを好きになってそれが叶えられないのは、マリアが修道女だからではないのだもの。(そういえば、『サウンドオヴミュージック』のヒロインの名前もマリアで、彼女も修道女見習いでした…でも、彼女は自分の神様を手に入れる)

彼女に罪があるとしたら、そうやって自分を偽り、神を謀ったことなのではないでしょうか?(でもそれは神を敬慕するゆえの美しい罪だとも思う)。
でも、マリアだって、マリアだって、ニーノと愛しあえれば、狂わずに死なずに幸せになれたかもしれないのです。マリアにとっての神様はニーノだったから。(それは、たとえば、貴下も知っているあの子もあの子もあの子もそうだったと…今さらながら思わずにはいられないのです…そうではないでしょうか?)

密やかな狂気と、そこに踏み込まずにはいられない情熱、そういうものを孕んでいないものを、恋だなんていいたくない。だから、マリアの精神は汚れながらも美しい。でも、その両極に同時に在らざるを得ないマリアの精神は、本来在りえないはずのもののひとつで、彼女をそう在らしめているのは、彼女の神への意思的な思いだから、だから、それがとても痛い。

※『尼僧の恋』、映画があるそうです。
観ていません。でも、映画のマリアは死なないようです。
マンディアルグ『オートバイ』の映画版と小説版のちょうど反対になりますね。


2006年03月04日(土)



 

ひとのかたちでいたくないのです、と云ったら「ひとのかたちをしているほうがいい」という言葉をもらう。



2006年03月03日(金)



 『モスラ』を観ました

『モスラ』を観ました。

モスラはいいなぁ。
キングコングみたいに殺されたりしないから。
どんなに人間がやっつけようとがんばってもがんばっても死んだりしないんだよー。無敵で最強。

かみさまだったら、こんなふうに死なないかみさまがいい。
人間なんて、たちうちできないくらいつよいかみさまがいい。
文明なんて、けちょんけちょんにしてしまうくらいのかみさまがいい。

モスラには、人間のことばなんてつうじないの、それくらいてのとどかない存在のかみさまがいい。
人間があがいてもあがいても、関知しえないくらいの絶対不可侵の存在がいい。
かみさまだったら……そんなのがいい。

わたしがいきるこの世界には、もうたぶんかみさまはいない。
少なくともわたしが感知できうる世界に、それはほとんど顕れてはこない。
ときどきほんのかすかに痕跡がみつかるだけ。
「たぶん」「おそらく」「きっと」「かもしれない」。

それでもそういった言葉の周辺にわずかに残っているものをかきあつめて、
あったはずの、あるはずのものの原像を結びたい。


2006年02月23日(木)



 「心中する心中」

「お気に入りの歌もみつかったし、一番好きな本もある。とっておきの風景もいえるし、毎日着ても飽きないワンピースだって買った。これから先、それ以上のものがみつかるかもしれないけれど、限定された生活も素晴らしいわ。私の生活は行く先々で色を選択していく塗絵タイプではなくて、あらかじめ決められたピースをみつける為に進んでいくパズルに似ているの」
(獄本野ばら「心中する心中」『それいぬ』国書刊行会、1998)

この土日、お部屋のお片づけをして、道に落っことしてしまったと思ってあきらめていたお気に入りの時計もみつかったし、ずっとさがしていたCDも今日買ってしまった。
もちろん一等好きな本は本棚にあるし、『モスラ』だって観た。
愛する京都にも行ったし、バレンタインには美味しいチョコレートだって戴いた。

パズルのピースの数は最初から決まっている。
あとは足りないピースを探しだせばいいだけ。
あといくつ?
あといくつ?

(BGM=「WARSZAWA」『LOW』DAVID BOWIE, 1977)


2006年02月21日(火)



 誰かが

誰かがいなくなってもその人の写真は残る(あるいは言葉、ひいては記録され、記憶されているあらゆる事象)。
そして、その人物がかつていた場所で、またなにもかかわりのないところで、
まったく別の、新たな物語がその写真をめぐって生成されていくだろう。
たとえ、生前を知っていたとしても、そこから産み落とされるのはまったく別のものなのだ。
いなくなってしまった人の声はもうこちらには決してとどかないのだから。

当事者のいないたくさんの物語が辿り着くのは何処なのだろうか。
所有し、断裁する人がいない物語はいつ終りをみつけられるのだろうか。

考えてみれば、そんなことすら不思議で畏しい。

2006年02月19日(日)



    被写体




写真を撮ってもらった。
自分にとって、被写体になる歓びというのは、「完全な客体」や「オブジェ(鑑賞物)」になることができるという歓びだ(それは、撮ってもらったものを見せてもらう喜びとはまたべつのものなのです)。

撮られる人に一瞬、完全に支配され、所有される歓び。
ファインダーを覗いた人と覗かれた人から、一分の隙もない完全な世界が生成される(でも、その世界が存在するのは、はじまりとおわりが同時に起こるくらいのほんの少しの時間だけだけれど、それでもそこに至ることができた瞬間はとても幸せ)。

シャッターが降りる一瞬だけ、ひそかにその無疵で完璧な世界を噛み締めた。

御写真=ルイス・キャロルの少女写真。steward様のNYからのポストカードより。

2006年02月10日(金)



 京都取材




京都取材敢行中。
冬将軍とあいまみえたため、懐炉5個使用中。
お仕事でも京都は楽しいな。

御写真=夜の先斗町

2006年02月09日(木)
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