2010年08月11日(水) |
【小説】空をあおぐ・前編 |
頭をがしがしと掻き、幹弘は背中をまるめて問題用紙をにらみつけた。昨日しっかり覚え直したはずの公式が出てこない。 実力テスト最終日、机にしがみつくようにして受けた数学は惨憺たるものがあった。いつもならもう少し埋まるはずの解答用紙はほとんど白紙で、このままでは補講決定だ。 くっそ、と悪態をつきたいのをこらえてシャーペンをにぎる手に力をこめる。 教室のなかは底冷えしていて指先がつめたい。ニュースで霜がおりたと言っていた気がする。滅多に氷点下にならないこのあたりの公立中学では、暖房器具は置かれていない。室内にいても寒さを感じるほどだ。 だから、いっそそれが凍えて見える幻だったらいいのに、と幹弘は思う。 机のまえに――宙に浮いた少女がいた。 制服の長袖ブラウスに赤く咲くリボンタイが目に映える。ブレザーを着ていないが寒そうな様子もなく、口を開いた。 『ねえ、こんな問題もできないの?』 うつむいていても視界に入ってしまうのをいまいましげに思いながら、つとめて冷静にいようと意識してゆっくり呼吸をする。 『テストなんてつまらないわね。早く終わるといいのに。ね、終わったら遊びに行こうね。そうだ、答え教えてあげる』 (これは幻覚、幻覚、幻覚。聞こえるのも気のせい、気のせい……負けるな俺!) しずまりかえった教室では、さらさらと答えを書く音がする。 『だからね、この問題はひとつ前の応用だから、こっちの公式と――』 白い指さきが問題用紙の上をさす。 「っるせー! 気が散るだろうがーっ!!」 頭を振りあげて叫んでから我に返る。幹弘の席は窓ぎわの真ん中だ。すこし首を動かせば教室が見渡せる。クラスメイトたちがこちらをいぶかしげに見ていた。 「どうした伊藤。テスト中だぞ」 担任が近寄ってきて、幹弘はあわてた。 「あ、えっと。な――なんでもないです」 「先生、そっとしといてやってください。テストのプレッシャーと失恋で眠れてないだけだから、たぶん寝ぼけただけです」 「ノブっ!」 斜めうしろから伸幸の声があがる。とっさに怒鳴るが、起こったざわめきにかき消されてしまう。 「本当のことだろ。でもな、相手も亡くなったんだから、早く気持ちを切り替えたほうがいいって言っただろ」 「わああ、てめ、黙ってろ!」 とっさに消しゴムをつかんで投げる。しかし見当違いの方向へ飛んで行ってしまう。 「そ、そうか……。うん、まあ、ショックなのはわかった。だが伊藤、いまはテスト中だ。辛くてもちゃんとやれよ」 担任は神妙な表情でうなずき、幹弘の肩をかるく叩いて教壇へ戻っていった。まわりの視線を感じながら幹弘はうつむいた。なんとも言えない雰囲気があたりを取り巻いている。 振られたのは事実だ。そしてその少女が先週亡くなってしまったのも。 だが。 彼女はいま、幹弘の目の前にいた。 『もう、馬鹿ね。黙ってれば平気なのに』 と呆れたふうに肩をすくめて、ふたたび解答を教えようとする。たまらず幹弘はテストを放棄して机の上に突っ伏した。 霊媒体質でもなんでもないはずの彼は、昨夜から川崎南緒(なお)に取り憑かれていたのだった。……
※
「で、話って?」 放課後、風のつよい屋上で、伸幸が腕を組みながら問う。幹弘はくっついてきた南緒と、伸幸を交互に見ながら、なんと伝えたものか頭を悩ませていた。 ふたりの向こうに街並みと、陽射しに光る海が見える。 「もしかしてさっきのことか? ばらしたことなら謝るから、失恋のつづきなら自分で乗り越えてくれ。寒いから戻るぞ」 「ちょ、ちょっと待ってって! 関係なくはないけど、違うんだ!」 踵をかえした伸幸の腕をつかまえる。 「出たんだ。昨日の夜、川崎南緒が」 「――は? 意味がわからないな。川崎は一週間前、事故で亡くなったろ。通夜も葬儀もすんだはずだ。もう灰になってる。言い方は悪いけど、死んだんだ。いるはずがない」 「……うん、まあ、そうなんだけど」 言って幹弘はちらりと南緒に視線をむける。 「出たのは――幽霊なんだ。いまもそこにいる。テスト中も話しかけてきて、それで」 「わかった! わかったからもう言うな」 伸幸は語尾をさらってさぐるようにこちらを見た。つめたい風が身にしみた。 「徹夜で勉強したんだろ。いますぐ保健室で寝てこい。顔色悪いぞ」 「……やっぱ、そうだよな」 うなだれてしゃがみ込んだ幹弘に、伸幸が片眉をあげた。 「きっと俺がおかしいんだ。振られた相手に未練をのこすならともかく、なんで振った俺んとこ来るんだ……。俺が未練に思ってるとか、たぶんそういうオチなんだ」 「とにかくほら、立てよ幹弘。とりあえず休んで、それでもまだ見えるってんなら、対策を考えよう」 うなずいて立ち上がろうとした幹弘は、寝不足と急にうごいたせいで、よろめいた。景色が一瞬遠ざかり、気づくとざらりとしたコンクリートに両手をついていた。 「なにやってんだよ。ほら、つかまれ」 「サンキュ」 差しだされた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。陽射しが白く目にしみるようで、何度かまばたきをした。南緒の姿がなければ、テスト上がりのさわやかな気分を満喫できたはずなのに。 「……幹弘」 「ん?」 見れば伸幸は眉をひそめて宙をながめている。南緒が浮いている場所だ。伸幸の視線に気づき、彼女は笑顔をつくって手を振った。 「見えた。……本当に、川崎だ」 『話終わった? ええと、ノブくんだっけ? すごいすごい、あたしのこと見えるんだ。幹弘くん相手してくれないんだもん。ひまだったんだ』 「悪かった。見えるなら信じるしかないな」 「え――、ノブそれマジで言ってんの? 見えたからって信じられんの? 俺たちの頭がおかしいのかもって思わない?」 「おまえの頭はともかく、俺は夜更かしも徹夜もしてない。精神不安定になるような出来事も起きてない。それに幹弘とおなじ幻覚を体験してるとは考えにくいからな」 「……いや、そういう問題じゃなくてさ」 脱力する幹弘をよそに、伸幸は南緒に向き直った。 「で、川崎はなんで幹弘のところに来たんだ?」 『あたし? なんとなく思いついて、かなぁ。まさか見えると思わなかったんだけど。だって他の人たちはあたしに気づかなかったんだもん。ね、これが愛の証ってやつかな?』 南緒は邪気のない笑みをうかべる。 「なるほど。幹弘が手こずるわけだな」 幹弘は顔を引きつらせた。愛の証なんてあるはずがない。南緒と会話らしい会話を交わしたのは、幽霊になってからだ。 一目惚れだった。落ち葉が風に吹かれ、舞いあがった砂とつむじをつくる、冬のはじまりだった。ひとり透過したような不思議な雰囲気で遠くを見つめる南緒に、なぜか目が釘付けになった。そしてその勢いのまま告白し、撃沈したのだ。 いたたまれなくなり、幹弘はうつむいた。 その隣で、伸幸が幹弘の手をつかんだり離したりしていた。 「へえ、おもしろいな。おまえに触ってると見えるし聞こえるみたいだ。見える原因が未練なら簡単だ。それをなくせばいいんだろ」 伸幸は意地悪そうに口もとに笑みをのせてつづけた。 「もう一回振られてくればいいんだろ」 うらめしげな視線を送っていた幹弘は、ため息とともに肩を落とした。
※
空気が肺にしみる。手袋をしていても感覚がなくなる指さきをダウンのポケットに突っこんだ。赤いマフラーにあごをうずめる。 家族の目から避難して、家から十分ほど歩いたところにある海沿いの公園へ来ていた。 「……なあ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか? なんで俺んとこ来たわけ?」 空が高い。寝不足のせいか陽射しがやけにまぶしい。海風のつよい公園には人影がなかった。 幹弘の座るベンチのかたわら、花をつけた椿をながめていた南緒が振り向いた。 『幹弘くん、なんか言った?』 「だから、なんで来たんだって訊いたの! 本当は理由があるんだろ? 振ったのに来るなんて変だろ。普通逆だろ?」 『そういうものなの? じゃあさ、もし逆の立場なら幹弘くん、来てくれた?』 「……あのな」 そういうことを話してるんじゃなくて、と言葉をつむごうとしたとき、 『あっハトー!』 舞い降りて羽づくろいをはじめたハトのほうへ行ってしまう。動物たちは見えているのかいないのか、南緒が近づくと一様に飛びのくのだった。 「――ハトより下か、俺の存在……。ていうか、かわいそうだろ。やめろよ」 『だっておもしろいんだもーん』 心底楽しそうに南緒はハトを追い散らす。 幹弘は無意識に息をつく。こんな性格だとは思わなかった。知っていたら告白なんてしなかったかもしれない。 おどろいて飛んだハトは柵を越え、波間から突き出るテトラポットに避難した。 追いかけていた南緒は、ふと笑みをおさめて椿の上にとどまった。 『……ねえ、海って、なんで波打ってるんだと思う?』 「は?」 『なんで青いんだろうね。空とおなじに』 そこに初めて会ったときとおなじ瞳をした彼女がいた。南緒は遠くを見つめたまま、表情を動かさない。引力による干満や、光による視覚への刺激といった答えを求めているのではないのだろう。 幹弘は南緒にならって水平線をみた。青の深い冬の空と海が接しているようだ。そこに彼女がなにを見ているかわからないまま、海風に吹かれていた。 『――昔、ひとつだったんでしょ?』 ふたたび南緒が言葉をつむいだ。 ついていけなくて、何が、と問い返した。 『空と海よ。さっきから、そう言ってるじゃない。あたし、……海って好きじゃない』 「――意味がわからないんだけど」 南緒の思考から出る言葉は、前後が途切れているようでむずかしい。 『なくしちゃった空にとどきたくて、波を打つんだって何かに書いてあったよ。そんなの、無駄っぽくて好きじゃないって言ったの』 「余計に意味がわからないんだけど。……でもそれが本当なら、日本海とかのほうが現実味あるんじゃないか?」 『なにそれ。波が激しいから?』 「そういうイメージだろ。こう、崖けずる勢いって感じ」 『なにそれ』 あはは、と南緒は声をあげ、それから、 『ねえ、もう帰ろ』 言って降りてくる。幽霊のくせにふわりとスカートが風をはらんだように浮き、しろい腿が垣間見えた。 笑顔を向けられ、耳が赤くなっていないか焦った幹弘は、不自然に咳き込んだ。 『大丈夫?』 「――大丈夫だけど。やっぱ家来るんだ?」 『だって他に行くところがないんだもん』 「少しはあるだろ、友達とか、親とか」 『もう行ったの。あたしの家、この先けっこうすぐなんだけどね。前に言ったじゃない、だーれも気づいてくれなかったって。愛の力が足りないのかもね』 ごほごほ、と幹弘はもう一度むせた。 公園を出るとき、ちいさな女の子とすれ違った。風に負けないようにひと抱えもあるボールを持って駆けていく。 「ママ、早くーっ!」 つたない口調で呼ぶ高い声が響く。 南緒は振り向いて、すこし残念そうに言う。 『……あの子も見えないんだね』 「普通はそうだろ。俺も人生で初めてだし」 『そうだけどさー、こどもには見えちゃうとか、物語みたいなことあってもいいじゃない。つまんない』 「どうせ見えても驚かすだけだろ。ハトとかも、そっとしといてやれよ」 『はいはい、わかりました。幹弘くん、やさしいね。――やさしいから、あたしに来るなとか言わないよね?』 幹弘はぐっと言葉につまった。 「……駄目って言っても来るんだろ?」 『やった、ありがと。幹弘くん、そのマフラーかわいいね。きれいだし』 南緒の指さきが、胸もとのあたり、幹弘の赤いマフラーをなでた。しかし白い指はすり抜けるばかりだ。 「赤い色が好き?」 椿の花をみていた南緒を思い出し、訊いてみた。南緒はすこし考えるようにして、ほほえんだ。どこか暗い瞳の色に、幹弘はわけもわからず南緒の手を取りたくなった。 実体のない彼女の手はすり抜けてしまうだろうけれど。 「さみ……」 つぶやいて、ちいさくくしゃみをした。 潮の香りと、波の音。日なたにいれば、陽射しのぬくもりを感じた。 それでも、海から吹く風は、まだ春から遠かった。
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