2010年08月12日(木) |
【小説】空をあおぐ・後編 |
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閉めきった窓の向こう、寒空のしたへ走りでていく生徒たちが見える。机に頬づえをつき、体育の授業がなくてよかった、と考える。まだ一時間目が終わったばかりだというのに、だるくて仕方がない。 『どうしたの? 今日はなんか、ため息ばっかりついてるよ』 「ん? や、ちょっとだるいだけ」 『そう? ねえねえ、さわったらノブくん以外でも見えるようになるか、ちょっと試さない? おもしろそうじゃない? やろうよ』 「いや、それは駄目」 パニックになること請け合いだ。誰もが伸幸のように淡々としていられるわけではない。彼が特別なのだろう。 はあ、と息をついて立ちあがる。ここで会話をしていたらまた失敗してしまう。 「どこ行くんだ、幹弘。次、時間にうるさい牧田の授業だぞ」 伸幸が見とがめて声をかけてくる。 「わかってる。――っと。わり」 振り向きざましゃべっていると、よろけて女子の机にぶつかった。 「幹弘」 もう一度伸幸が呼ぶのが聞こえた。しかしそれには答えずに手を振って教室を出る。 どこへ行けば人目がないだろうか。悩んで足を止めると、 不意に手首をつかまれた。 「あれっノブ。どうしたんだ?」 「どうしたって。おまえ、体調わるいだろ」 「え? そうなの? え? ちょっ」 腕を引っ張られて焦った声をあげる。 「保健室行くぞ。熱がある。……無理しすぎなんじゃないか?」 伸幸はならんでついてくる南緒に視線を向けた。 「そうじゃなくて、たぶんただの風邪。昨日、ちょっと長く外にいたから。そっか、だるかったのは風邪だからか――うわっ」 自覚したとたん、体が重く感じられ、膝の力が抜けてよろめいた。 『あぶないっ』 姿勢をくずした幹弘に、南緒がとっさに手をのばした。もちろん支えられるはずもなく、倒れ込んでしまう。 『あはは、ごめんね。さわれないんだった』 「い、いや。大丈夫……」 「大丈夫じゃないだろ。荷物取ってくるから歩けるうちに帰れ。川崎、お前ちょっと来い。ずっとくっついてるとこいつ気にするから」 幹弘は伸幸に助け起こされながら真っ赤になっていた。 体を張って受け止めようとした南緒と、まともに正面からぶつかっていた。抱き合うような格好になってしまった。 一気に体温が上がった気がした。
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その夜。 熱にうかされながら目が覚めたとき、すでに日付が変わっていた。カーテンの隙間から月あかりが洩れている。 母親が何度か様子を見に来たことはなんとなく覚えている。 体が火照るようで、吐く息も熱かった。 南緒は幹弘が起きていることに気づかない様子で、そっと手をのばしてくる。熱を測るように額へと手をあてる。 やっぱり触れることはできなかったけれど。 その手のひらは、心地いいような気がした。 ふたたび眠りに引き寄せられながら、彼女のことを考える。倒れ込んだときに重なりあって、見えてしまった心のことを。 南緒の世界は透明だった。 透きとおって、なにもかもが遠い。澄んできれいな色ではあるけれど、同時に悲しい色だった。他者を寄せつけない、凍えるような。 彼女はなにかを求めている。その何かはわからない。 たぶん、南緒が海で、その何かが空だ。手をのばしてのばして、のばしつづけていたのだろう。 夢のなかで幹弘は同じように手をのばした。 彼女のほそい指さきにほんのすこしでも触れるようにと祈りながら。
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たっぷり三日間寝込み、金曜日、いつもより軽く感じる体で一日を終えた、その帰り道だった。 幹弘は伸びをして、深く息を吸う。肺が洗われるような空気だ。雪が降ってもおかしくないと思えるほど冷えこんでいる。 「おー、すげ。真っ赤だ」 西にたなびく雲が、あざやかな夕陽色に染まっている。横にならんでついてくる南緒が、伸幸にならって空をあおぎ見た。 『……うん、キレイね』 小さくつぶやく。しかしすぐに足もとへ視線を落としてしまう。野良猫が近くを横切ったのにも反応しない。 幹弘は首をかしげた。そういえば昼間も口数がすくなかった気がする。 こんな南緒ははじめてだ。 幹弘は南緒の頬へ手をのばした。なぜだかわからないが、いまなら触れられるような、――なにかを伝えられるような気がした。 気配に気づいて南緒が顔をあげた。 目が合った。 とっさに手をおろす。 『――どうしたの?』 「う、いや、えっと。ご、ごめん」 『なんで謝るの? なんかしたの?』 南緒が不思議そうに見た。 さわろうとしたのがやましいことのように思えて顔が熱くなった。じわりと汗をかく。 「い、いやあの。ほら、今日ノート写したりとか忙しかったから、無視してたっていうかその。悪気はなかったんだけど、だから」 『幹弘くんの謝ることじゃないよ?』 「えっと、でも、……元気ないから」 考えずに出てしまった言葉に幹弘は焦った。直球にもほどがある。背中を汗がつたった。 『元気、ないかな?』 ぎこちない笑みで問い返されて、幹弘はためらいつつもうなずいた。 『あはは、正直すぎ。でも幹弘くんのせいじゃないよ。ちょっと反省中っていうか。あたし自分のことばっかりでダメだなあって。だからごめんて言葉は、あたしが言わなくちゃ。風邪ひかせちゃったし』 「いや、風邪は俺が勝手にひいただけだろ」 『やさしいね。……ノブくんが心配するのわかるなぁ』 「――もしかして、なんか言われた?」 『おこられちゃった。カバン取りに行ったとき。無理させるな、あんまり負担になるならなんか考えるって。あたしのこと見えてないくせにね。聞いてなかったらどうするんだろう。でもいいなぁ、本気で心配してくれる友達がいて』 南緒はすこし笑ってから、 『あたし、そういう人いないんだ』 自分が悪いんだけどね、と洩らした。 「――」 幹弘は言葉につまった。なにか言いたいのにうまく出てこない。歩きながら必死に考えても、なにひとつ思いつかない。 と、視界にあざやかな色がうつった。 『ちょっ、なにしてるの!? ダメでしょ!』 南緒が制止の声をあげる。しかしそのときには幹弘の手のなかに一輪の花がおさまっていた。街路樹の椿をもぎ取ったのだ。 『もう、こんなことしたらすぐにしおれちゃうんだよ』 「あ、そっか。考えてなかった。でもま、もう取っちゃったし。ほら、これ」 幹弘は椿を差しだした。南緒が困ったように首をかたむけた。 『あたしに? さわれないんだけど』 「あっ……」 そうだった、と顔を引きつらせる。 『もう……、でもうれしい。ありがと』 ようやくほぐれた南緒の表情に、幹弘も笑う。夕焼けよりも椿よりも、鮮烈な色が胸にひろがった気がした。 空の端にはほそい月がかかっていた。 ふたりは笑いながら家路についた。
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息が切れる。走りながら幹弘はマフラーを乱暴に巻きなおした。 起きたら南緒が消えていた。朝食を終えても彼女はもどらなかった。 すがすがしい朝の空気のなか、彼は走る。 薄青の空には雲がなく、ひろがりを見せている。向かい風がつよく吹いていた。 もしかしたら成仏したのかもしれないし、幹弘の目にうつらなくなっただけかもしれない。その可能性は否定できなかった。 しかし――、机に置かれた椿が目に入ったとき、ここ数日のことがあざやかによみがえった。 予感がした。 たぶん南緒は、あの公園にいる。 息を途切らせ公園に駆け込むと、先日すれ違った女の子がひとりで遊んでいた。小枝で地面に落書きをしている。 『……幹弘くん』 ちょこんとベンチに腰をかけて南緒は子供をながめていた。あの日幹弘が座っていた場所だ。彼女は幹弘に気づくと、驚いたように立ちあがった。 『もしかして探してくれた?』 「いや、えっと、……一応」 うれしそうに目をほそめた南緒に、急に気恥ずかしくなり、しどろもどろ返答する。 「横、いいか?」 『うん。だけどまた風邪引いちゃうよ。ノブくんが心配するよ』 「ノブ? 確かにおなじこともう一回やったら、怒りそうだなー」 『いいじゃない、うらやましいよ。あたしね、後悔してるの。他人にあんまり興味がなくて、ひとりで好きなことしてるほうが楽しくて平穏で、心が波立ったりしなくて、好きだったんだよね。それが当たり前で、だから、会いたい、会いに行ってみようって思うほどの友達もいなかったの』 南緒は自嘲めいた笑みを浮かべて足もとへ視線をおとした。 『そのことにちょっと愕然としちゃった。見えないからとかじゃなかったの。会いたい人も、行きたい場所も、なかったんだよ。両親が見えなかったっていうのは、ちょっとショックだったけどね。でもすごく納得した。あんまり一緒にいたこと、ないし』 南緒がほのかに笑う。 『それでどうしようって思って、幹弘くんのこと思い出したんだ』 急にこちらに流れてきた話題に、幹弘は居心地が悪くて視線を泳がした。 『どんな人かとか、好きになるかもとか、そういうの知ろうともしてなかった。ちょっともったいないことしたよね』 「いや、あの……ええと」 なんと答えていいのかわからずに、もごもごと口のなかで言葉をさがした。 そのとき、つよく海風が吹いた。 ほどけかかっていたマフラーが飛ばされた。 地面に落ち、強風に押されるようにころがり、女の子の足にあたってやっと止まる。 しゃがみこんでマフラーをたぐり寄せる女の子のもとへ幹弘が駆け寄った。 「ごめん、拾ってくれてありがとう」 あれ、と女の子が目をみはる。 ふたりの手がかさなっていた。 「おねえちゃん! いつ来たの?」 白い歯をみせて笑う女の子に、南緒は曖昧に笑顔をかえした。 『ずっといたよ。遊ぶのに夢中で気づかなかったんでしょう?』 「えー、そうかなぁ」 その会話に、幹弘が固まった。手をはなすタイミングがつかめない。 「そうだ! レナ、ママとなかなおりしたよ。がんばったよ!」 『うん、この前、ここで一緒に遊んでたよね。知ってるよ。あたし、前にひどいこと言ったよね。ごめんね』 レナはきょとんとしている。 幹弘が目を向けると、南緒は苦笑いして、ちいさく肩をすくめた。 『近所の子なの。前にママとあそべないって泣いてたのよ。だから、そんなの当たり前のことなんだって言っちゃった。つよくならなきゃって。いやな性格だよね。だからあたし、幹弘くんに釣り合わないよ』 まっすぐに幹弘を見て南緒が言う。 『あたしも、今度があったら、いろいろ頑張ることにする。赤ってね、お誕生日とか特別なことを思い出すから好きなんだ。――いい思い出だって、あったのにね』 南緒はふわりと立ちあがる。 そのとき、またつよく風が吹いた。 「わぁ、雪!」 レナが顔をかがやかせる。幹弘の手をはなし、ちいさな両手で受け止めようとする。 空を見あげれば快晴だ。高く遠く、空がひろがっている。 ――風花だ。 どこかからか飛ばされた雪が、踊りながら降りてくる。 「あれっ、おねえちゃんは?」 レナが声をあげる。 風花を全身にあびるように南緒はそこにいた。 「もう行っちゃったよ」 「ふうん。ねえ、おにいちゃんは、おねえちゃんのカレシなの?」 ごほごほごほ、と幹弘は盛大にむせ込んだ。 陽射しを反射して舞う風花は、地面にふれるとあっというまに消えていく。あれ、と幹弘は目をすがめた。 南緒の姿がかすんで見えた。咳がなかなかおさまらない幹弘をみて笑っている。やわらかな表情だ。 その輪郭が急にとけだした。 『ありがとう。今度はあたし、頑張るね。手をのばしてみる。幹弘くん、ばいばい。楽しかったよ』 返答をする間もなく、気配が薄らいでいく。はらはらと舞う風花が陽射しに輝いていた。 「ねえ、カレシなの?」 「……友達だよ。俺は、南緒のこと好きなんだけどな」 無邪気に問うレナに笑いかけた。 二度目の告白だ。聞こえたかわからなかったけれど。さっき、やんわりと振られた気もするけど、これくらいは言っていいだろう。 かすかに空気がゆれて、南緒の笑い声が聞こえた気がした。ばかと、ありがとうと、いろんなものを含んだ声。 (知ってるか、海はひろいんだぞ) だから、どこかで空とまじわる、そう信じてもいいだろう。 幹弘は空をあおぐ。 南緒が手をのばしてやまなかった、高い空を。
END
※前後編あわせて原稿用紙30枚※
去年くらいにコバルト短編に投稿して落っこちたやつです。 いまの課題はキャラと、ドラマです。 なんとかしなくちゃー。
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