全くひどい気分で、一日を過ごす。 原因は、二日前の生活態度にある。
40度近い熱のなか、トウモロコシ50本を茹でていた。 気温ではない。体温である。
普通の人は、40度近い高熱でトウモロコシを茹でたりしない。 病院へ行って、点滴でも打ってもらうか、少なくとも 横になってねているはずである。
高額契約のキーマンだから客先に立ち会わなければならない、とか 半年前にやっとアポがとれた要人と会わなければならない、とか 重大な過失のクレーム処理に行かなければならない、とか 何百万部の出版物の締め切りに、原稿を間に合わせなければならない、とか 大事な国際会議に出席するための海外出張に行かなければならない、とか
そういうビジネスベースの類ならば、まだ格好がつくが、 そうであっても、本当はやるべきではない。 所詮トウモロコシとあまり変わりない。
死にそうな高熱をおしてでもやっていい事は、 親の死に目に会うことか、 それに自分が命をかけていると思える作業だけだ。 (そして私は、50本のトウモロコシを茹でることに決して命をかけていない。そうするための宗教上の理由もない。)
成り行きや社会的責任や金目で休むことを許されなかった記憶は、 「その時とるべきだった休息」を手に入れるまで、 その人の心の重荷になって海の深みに横たわり続ける。
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大鍋で、薄緑から黄色に、鮮やかに変色していく、 はちきれそうに豊満なトウモロコシを、綺麗だなとぼんやり眺め、 茹で上がった一本一本を、ラップフィルムで包む。 届ける際に入れた箱に、 「40度でボイルしました」と落書きしようかと思ったが、 意味がないので、やめることにした。 そんなホールデン・コールフィールドみたいな 子どもじみたことをするのなら、最初から人に頼めばいいんである。
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不必要な頑張りを、不必要な責任感でやってしまったために、 生きていく力を、すっかり使い果たしてしまった。
生きる力は、スプーンひとさじも残っていれば、 ヨーグルト菌のように、また増えていくものだ。 それを、歯磨き粉の最後の1cmを搾り出すように、 無理に押し出した自分が悪い。 すっかりなくなってしまっては、まさに、元も子もないのである。 人様から分けてもらいにいかないといけない。
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しかしそれでも、本当に心身共にボロボロでも、 こういうことを「書くことはできる」自分が不思議だ。
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