山の学校で、数年前の冬山研修中に起きた遭難事故の判決日。
Hは、たまたま用事があって講師を引き受けなかった、そういう研修である。
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判決を知ったHの落胆は、正直ちょっと鬱陶しいほどなので、 仕方がないから、言い分を聴く。要点は2点。
この判決文では、指導者に100%安全な登山が要求されている。 それは、これからは登山指導など誰もできないことを意味する。
安全性100%の登山を前提とするこの判決は、世界中の多くの優れたトップクライマーが共有する、登山本来の意味から大きく逸脱している。
そんなことを、静かに力を込めて、話してくれた。
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安全が100%確保された状態で山に登るのは、もはや登山ではない。 それは低山ハイク、ピクニックの類である。
アルピニズムというのは、数%の不可知を受け入れる覚悟をもちながら、 なおかつそうした予測不可能な局面でも、生きて高みを目指すための対応をすることが、本質なのだ。
登山のガイドブックに書いてあるマニュアルどおりに登る。 団体ツアーに参加して、行列の後をついて登る。 登山店の店員がすすめる山道具を使えば、安全に登れる。
そんな、安全を他人に委ねた認識の元で、どれだけの遭難事故が起きたか。 ほとんどのケースは、気象条件や体力体調、道迷いなど、突発的な変化に対する対応能力の欠如が原因なんである。
そのことは逆に、「登山には突発的な出来事はない」と思って入山している人が多いことを表す。 遭難など絶対にないと思い込んでいるから、山岳保険にも入らない。
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そして、本当は、登山だけではない。
人間は、明日起きることは、基本的に不可知なのである。
何もかもが「明日のことはわかりません」では心元ないし、社会が継続してゆかないから、 人は、契約や制度みたいな「先の見通し」をたてるツールを発明した。
「見通し」に慣れてくると、現代人は次第に不可知であることを忌み嫌い、 否定し、何よりも受け入れる体力を無くしてしまった。
そして社会は、その見通しに長けている人が優れた人ということになり、「想定の範囲内」は小利口な科白だという価値観が存在する。 第一、人間の発明したツールの最たるものである「金目」の出来事が、 「想定の範囲内」なのは、馬鹿らしくなるほど当たり前のことである。
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人々はすっかり不可知に対する耐性を失ってしまったが、 それは実のところ何も変わらず、人工的な価値観のすぐ側に横たわっているのだ。
さらに言うと、この国の私達は、 「何があっても、自分は立ち向かえる」という力強い気持ちと実力、そして 「そういうこともあるだろう」という冷静な気持ち、 これを備え不可知を受け入れることなしには、この閉塞的な社会から抜け出せないところにまできている。
2004年04月26日(月) ほどほどの喜び
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