2025年02月23日(日) |
ふるさととは何か? |
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室生犀星はその詩、『小景異情』でふるさとをこのようにとらえた。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
オレの母の郷里は鹿児島県の坊津町という田舎である。先日、その坊津町を町村合併で継承した南さつま市で、空き家が増加しているという新聞記事を読んだ。かつて母が暮らした家はもうそこにはなく、その地に親戚は多数住んでいるがすべて高齢者である。もうそこには若者はほとんどいない。
母と同郷の友人達は多くが関西に住んでいて、家を買いもはやその土地の住人となってしまっている。あの阪神大震災も経験し、オレの母と同じく関西人として人生を終えることとなるだろう。88歳となった母は坊津に帰省することももうないだろう。
かつて「ふるさと」とは帰るべき場所であった。失業したり、離婚したりした時に帰るのが実家であり、そこには代々続く先祖からの家があったのだ。その実家はたいてい農家だったりしたのである。母の実家も狭いながらもちゃんと畑があった。
母方の祖母は、4人の子を育てるために塩田で男衆に混じって力仕事をしていたらしい。母は母乳を飲ませるために幼い妹をおんぶして祖母が働く塩田がある丸木が浜まで行ったと語っている。母は坊津で小学1年から祖母が亡くなる中学3年までの9年間を過ごしたのである。
オレには帰るべきふるさとはない。今住んでいる家はオレの両親が建てた家であり、現在はオレの名義になっている。築50年の古い家だが、たぶんオレはこの家で死ぬまで過ごすことになるのだろう。父方の実家は和泉市の山奥になるが、そこは従兄弟が当主となっていて、我が家の本家である。古くからずっと続く旧家で,仏壇に過去帳があったのでそれを数百年は遡れそうである。
もしかしたらそこがオレにとっての「帰るべきふるさと」なのかも知れないが、少なくともその家で生まれたのは亡くなったオレの父であり、オレの父にとってのふるさとはその実家だが、オレにとってはそうではない。本家の家はやたらデカくて、時代錯誤なまでに立派なお屋敷なんだが従兄弟の子たちがみんな家を出てしまっていて、夫婦二人だけでその家をこれからどうしていくのだろうかとオレは心配している。もちろん回りには無人の家が増えている。
オレよりも少し上の従兄弟が亡くなって、90代の叔母が残された。それまで息子に介護されていたのにその介護者である息子の方が先に亡くなってしまったのである。リフォームされた立派な家もあるし、クルマが二台駐められる電動シャッター付きの大きな車庫もある。しかし、老人の一人暮らしにはもうその家は不要なのだ。このようなことはおそらく日本中で起きていることなのだろう。
日本中の「田舎」がどんどん消滅していく中で、帰るべき「親と過ごした実家」もまた失われていくことになる。母の郷里である坊津へ帰省したことがあるのはオレがまだ小学生の頃であり、それから約50年の時間が経過しているのである。あの頃遊んだ海は今はどうなってるのだろうか。
母の郷里に帰省したことがあるオレのような世代はもう老人となり、オレよりも後の世代となるともう帰るべき故郷を持たない人が普通である。地方の衰退とはつまり、そこが帰るべき「ふるさと」ではなくなったからである。本来都市というのは「仮の宿」であり、そこは終の住処ではなかったわけだ。賃貸ではなく持ち家として都市に住むようになった人々は結果としてふるさとを捨てたということになるのかも知れない。
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