今日が誕生日で、だからといって何が変わるというのか。 そんな醒めた気持ちでいながら、けっこう周りに言いふらしたこともあって、職場では「おめでとう」と言ってもらったりして嬉しがっている自分がいる。24になったからといって、何が変わるというのか。帰り道のタクシーで、隣に座ってた女の子が、「でも、24年前にオギャアって言って生まれたってことですよ。すごいじゃないですか」なんて言う。こいつ、おもしろい奴だなぁなんて思いながら、家に帰り、なんとなく日記を書いている。
正直、家族の誕生日すらウロ覚えの俺は、まして友人らの誕生日なんて、右手一本の指の数の分も覚えていやしない。そんな俺に、律儀にお祝いを言ってくれた君たちには、心から、ありがとうと思う。自分を生んでくれた両親に対しては、まだ、感謝の気持ちとかは起きない。ただ、祖母に対しては、葉書の一通くらい送ろうかと思う。「有難さ」というものは、近ければ近いほど実感できないものなのだろか。とにかく俺は、24になりました。
ふと思い立って、中島みゆきの「誕生」をBGMにかけてみる。なんだ、俺って意外と感傷的じゃないかと思いつつ、実際聞いてみても何の感慨も湧かない。この世に生まれたことのすばらしさをいくら壮大に歌い上げられようとも、聞いてるこちらに感受性がないのだから仕方がない。自分にガキでもいるのならともかく、「生まれてくれて Welcome」なんてセリフ、きっと口が裂けても出てきやしない。誕生日、おめでとう。そう、おめでとう。
唐突に、二十四歳という意味を考えてみる。二十四年、生きてきました。1980年に生まれ、2004年まで、生きてきました。それだけの時間、確かに俺は存在してきました。そこまで思い至って初めて、しみじみと、あぁ、こりゃあすげぇことだなと気づく。大過なく、守られて、世話んなって、とにかくここまで俺は生きてきました、と。「二十四年前にオギャアって言って生まれたってこと」をすごいと思うべきなのは、周囲よりもむしろ自分じゃないか。
「おめでとう」よりも先に、「ありがとう」が来ることが、真実なんじゃないか。今日が誕生日で、だからといって何が変わるというのか。別に何も変わりゃしない。ただ、今まで生きてきたことの有難さを、噛み締めるための日なんだろう。二十歳を超えてからの誕生日の意味は、そんなもんだと思う。
「誕生日なんだから何か書け」と言われ、眠気と偏った栄養にやられている頭で考えてると、なにやら小難しい話になっている。「おめでとう」と言われ、「いや、なんか悲しいんよ」とか、つれない返事を返すのではなくて、素直に「ありがとう」って、言えればいいのに。この天邪鬼は。
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