- 2006年12月24日(日) 「おばちゃんたちの市民運動」と言われても
そういえば、13億人いる中国人のうちのほんの1割が日本人の平均を上回る所得を得てゆとりのある(?)暮らしをしていたとしても、その人口は同じくらいの暮らしをしている日本人の2倍になる。
なぜなら、中国人の人口は日本人の10倍だから。
(よくわからない人は計算してみてください)
……『N響アワー』を見ていて、そんなことに気づいてしまったりするんだけど。
なんかもう、政治的なことはどうでもよくなってきてて。
そりゃそれなりに自分の意見は持ってるし、まともに耳も貸さずに毛嫌いされても「頭悪い方が悪い」としか思わないし、そういう手合いはきっとわたしみたいなタイプなんかより先に滅びるだろうからほっといてもいい、とも思ってはいるけど。
でも。
自分の意見を言うことで、今わたしが暮らしにくくなるんだったら、それも嫌だ。
バカな人たちに媚びるのも嫌だけど、そのバカな人たちがたくさんいてわたしの居場所を奪ってしまうようであれば、わたしは自分の居場所を守るために多少は妥協しなければならないかもしれない。
で、一方。
わたしが言ったりやったりしていることを「おばちゃんの市民運動(なんか意味がない)」と言った人がいた。
わたしはそのことに、かなり腹を立てている。
もちろん、優しく囁いただけでは大声で喚く奴らにかなうわけがなくて、簡単に負かされてしまうのもわかっている。
でも。
より大きい声で喚いて「勝つ」よりも、「負ける」方がましだと思うのだ。
暴力使ってまで何かに「勝ちたい」とは、どうしても思えない。
「声が大きいこと」を良しとする考え方は、はっきり言う、「大嫌い」!
実態は、わたしだって他の誰かよりも声が大きくて「勝っている」ことがある。
でも、勝ったからといってそれが嬉しいとは決して思わない。
また、他の誰かに言い負かされたりすることがあっても、それが悔しいとも思わない。
勝負のない世の中になれば良いとも思わないけど、声が大きければ勝てるなんて原始的な勝負はしたくない。
勝つなら「共感」で勝ちたい。
世界中の誰もかれも味方につけてしまえば、それが本当の勝利だ。
目指すなら、そういう勝利を目指したい。
相手を滅ぼしても、そんなの何の価値もない。
(こういう言い方すると、どっかの巨大な新興宗教団体と同じことに?
念のため、わたしはあらゆる宗教団体と関係ありません。信じている神さまはいるけど)