- 2009年06月27日(土) わたしの音楽の方向性……
時々言われるけれど、「狭い静岡の市場で、何軒ものお店をかけ持ちするのは無理だろう」という意見がある。
わたしももっともだと思ったし、1軒に出ることでもう1軒のお店に自分のお客さんを連れて来れないようになってしまったら、それは確かにせっかく出演させてもらうお店に対してとても失礼なことになる、と思う。
でも、どうなんだろう……?
1軒のお店に、自分のお客さんを「全員呼ぶ」というのは。
いろんなお客さん(わたしにとってはそれは「友達」ともいう)がいて、その人によって「好きな音楽」「好きな雰囲気」「好きなお店」は異なってくる。
自分が出られるのはこのお店だけだから、と言っていたら、「それじゃどうしても行けないよ」という人も出てきてしまう。
結果的に、わたしのライブに「ずっと来れない人」ということになってしまう。
わたしは、今出ているところでは来れない人のために、他のところでライブをやるのは、構わないのではないか、と思う。
別に、今出ているところを嫌って、というわけではなくても、曜日や時間帯が合わないとか、場所が遠いとか、いろんな事情がある。
わたしが「このお店でしかやらない」と言いきってしまったら、「そこには来れない人のことはもう知らない」ということになってしまうのではないか。
もちろん、自分の音楽を聴いてくれる人を全員かき集めてもかろうじてお店に失礼にならない程度のお客さんしか来てもらえないのだったら、「あっちでもこっちでもやります」というのは、本当に失礼な話でしかないだろう。
でも、たとえば「島唄の日」に来てくれた人は、ふだんのわたしのステージにはそれほど興味を持たなかったけれど、「島唄」に焦点を当ててやるステージだったら来てみたい、と思ってくれた人もいたわけだし。
その前の月のお客さんとは、さほど重なっていなかったので、2か月分合わせると、両方とも来てくれた人をダブらないように数えても60人くらいは来てくださっていることになる。
もちろん、その大半は、実はゲストで出てくれた人たちのおかげだったりするので、そこのところを勘違いしたらとんでもないことになってしまうわけだけれど。
わたしは、頭がよさそうに見えて実は「常識を知らない」人なので、こうやってここに書くこと自体が、もしかしたら誰かに対してとても失礼なことになってしまっているのかもしれない。
また、「わたしは30人ぐらいのステージが良くて、1000人も2000人も集めた会場で演奏するのはムリ」とか言ってるのも、実はやっぱり「甘え」でしかないのかな、と思うようになってきた。
しっかり売れてて「社会的責任」も果たしているような、それこそ誰が見ても「プロ」と認めるようなミュージシャンの中にも、きっと「本当はこんなに大きな会場で一人一人の顔も見えずに演奏するのはイヤだ」と思っている人がいるのだろう、と思う。
もちろん、そんなこと言ったらたいていの人は「あっそう、じゃあそういうところでやれば?」(もう知らないよ〜)と言って離れていってしまうのだろう。
「小さなステージ『も』大切にする」という人はよくいるけれど「小さなステージ『の方が』いい」という人の話は、あんまり聞かない、というのも当然のことだろう。
それを自分のスタイルやスタンスにして活動しているミュージシャンもたくさんいるだろうけれど、残念ながらその人たちのうちのどれほどが、それだけで自分の生活を維持しているか、あくまで推測だけど楽観的な割合でないことだけは確かだろう。
また、聴く側にしてみれば、たとえステージの上の人に自分自身の存在を直接確認してもらえなくても、同じ場所にいてその人の「生の演奏」が聴けるだけで十分幸せ、という人だっているわけで。いや、リスナーとしてはそれが「普通」?…わたしには「普通」はわからないのだけど。
(わたし「普通のリスナー」やったことないから。
とにかくウルサいったら、ありゃーしない。
でもまあ、キース・ジャレットの時に自分の中から湧き上がってくるものをあくまで「内面だけで高めていく」という作業ができたのは、とてもよい体験だったけど、あくまでそれはキース・ジャレットと自分を「別の世界の存在」として捉えることができたからで、それ以外のほとんどのミュージシャンの演奏については、ついどうしても「自分も参加する」というスタンスでしかいられなくなってしまう。
ということは、「あくまでリスナーに徹する」ことができないわけで、リスナーとしての在り方やマナーから言ったら、たぶん「失格」なのだろう。
クラシックでまでそうなんだから、困ったもんだ……クラシック楽器なんて、自分ではほとんど弾けない(吹けない)くせに。
わたしは、わたしの演奏を聴いてくれる人に対しても、わたしの演奏に「参加」してもらいたい、と、実は思っている。
自分が「参加」して、心から「楽しい」と思った音楽を、再現したい、と思っている。
参加するには、直接顔を見合せて、一緒にノる、ということが、ある意味不可欠なのだ。
でもまあ、それってかなり「特殊」だし、いわゆる「普通の」?リスナーにも聴いてもらえるような音楽を目指すことも必要なのかもしれない……それだけで生きていきたいのなら!)
だとしたら、たとえ大きなステージの上からたくさんの人たちに向かって「まとめて」歌いかけるだけになってしまったとしても、わたしは、一人一人のお客さんがわたしの歌を楽しみ、わたしと場所や時間を共有していることを喜び、わたしの姿を見ることを嬉しいと思ってくれる、ということを「信じる」しかないのではないか。
聴いている相手がどんな人で何を考えているか、ある程度でも受け止めながら演奏を聴かせることができない、というのは、わたしにとってはある意味「手抜き」ということになってしまうのだけれど、そんなこと言ってたらCD1枚売ることだってできないじゃないか。
わたしの主張は、その意味では「きれいごと」でしかないし、もしかしたら大きなステージで歌うチャンスなんか来るはずないよ、と思い込んでいる自分を正当化するための「言い訳」でしかないのではないか。
「規模の経済」によってたとえ犠牲になってしまうことがらがいくつもあったとしても、わたしは「信じる」ことで乗り越えていくしかないのではないか。
決して勘違いしたくはない。
でも、今までにわたしの音楽を聴いてくれた人たちがみんな集まってくれたら、きっと地方の中ホールぐらいは埋められるのではないか。
今、わたしの演奏を聴きたい、と思ってくれている人たちだけを集めても、その半分くらいにはなるのではないか。
もしかしたら、わたしはそういう、もうちょっと大きなステージ、というのを経験するべきなのかもしれない。
わたしの唄を、曲を、演奏を、聴きたい、わたしの姿を見たい、という人たちばかりが集まった、少なくとも100人程度の会場で…… (でも、「100人」だと、たぶんその全員と1度は目を合わせることができちゃうだろうからなー……(一応経験あるし) それなら、今までやってきているステージとスタンスは変わらないわけで…… 「一人一人と目を合わせる」ことができないとしたら、その2倍くらいからかなー……?)
実は、何年か前(いや確かおととしくらいだったと思う)に、わたしは「100人規模のコンサートを成功させたい」とぶち上げてみたことがあった。
でも、それは、その場限りの「言葉だけ」に終わってしまった。
(たぶん、わたしの周囲には「会津は口約束してもあっという間に忘れてしまう」と思っている人が少なくないと思う。それは確かにそうだけれど、案外完全に忘れ去ってしまってはいなかったりもするんですよ)
できもしないのに、無理やり「チャレンジ!」みたいにして、たとえば負債をたくさん抱える、とかいうことをする余裕は、今のわたしには、ない。(っていうか借金さっさと終わらせろよ!)
でも、自分にできる範囲のことをしていくうちに、次第にその規模が大きくなっていく、ということは、アリなのではないか。
やっぱり、できることならそんなに遠くない将来、せめて「100人規模」の会場をいっぱいにするコンサート(名前は「ライブ」でもいいよ)を、実現させたい……そんな気がしてきました。