原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2009年07月28日(火) 一五一会の可能性

このところ、いろんな民族楽器にこだわっている。
おもしろいのは、一五一会という楽器が、弦楽器の発達史から見ると

西回り最終形態=ギター + 東回り最終形態=三線 のチャンプルー

という成り立ちなのに、ふと気づくと、世界地図のあちこち、それも地理的にいろんな意味で「対極」の位置にある地域の民族楽器と似ていること。
たとえば、
・アイリッシュ・ブズーキ=ユーラシア大陸のちょうど反対側
・サズ、ドゥタールなど=日本(大陸の辺縁)ではなくど真ん中(トルコなど)
・ドンブラー、クムズなど=海洋周辺ではなく内陸
・クアトロ、トレースなど=地球の反対側

あと、楽器の名前も、「一五一会」って結局チューニングのやり方のことなので安直な語呂合わせだなあ、なんて思ったりもしたけれど、世界中の民族楽器のほとんどは

・三線=「弦が3本」
(同じようなネーミングは「ドゥタール」=「弦が2本」、後から知ったけどインドの有名な「シタール」も語源はペルシャ語の「セタール」=「弦が3本」で、実は「三線」と同じ?!中南米の「クアトロ」=「4」、「トレース」=「3」というのも結局は弦の数だし、現代では弦楽器の「代表」とか「スタンダード」みたいに思われている「ギター」だって、元をたどれば「シタール」〜「ジタール」〜「キターラ」〜「ギターラ」というように、中心地から辺境に伝わっていくにつれて発音が訛っていったなれの果てでしかないし。
「ギター」の「ターtar」の部分はインドやペルシャあたりで「弦」の意味を表す単語に他ならないし、まさにそのままの名前の楽器「タール」というのもある。

……と、キリがないけれど、ここで重要なことを忘れてはいけない。
現代に「生き残っている」楽器は、全てしっかりした「文化」の上に存在しているんだ、ということ。

きっと、世界中で今までの歴史の中で何度も、誰かがふっと「こんな楽器面白いんじゃないか」と思って作った楽器が、無数にあったんじゃないか。
ただ、そのほとんどはその場の「思いつき」だけで終わってしまい、誰にも継承されることはなかった。
仮に、一時的に継承されたことがあっても、継承する担い手=その人たちにとってその楽器が「必要」だと思えるような「文化」がなくなってしまえば、その楽器も同時に消え去っていってしまう。
いや消え去ってしまうまでは至らなくても、大きくかたちを変えていく。
(実は今、頭の中にいくつかのエピソードが思い浮かんでいる。一つは「琵琶はなぜ日本では高機能な演奏(広い音域を速い音符で演奏する、みたいな)に向かない楽器として発展したか」、あと一つは「カザフのドンブラーがバラライカになった理由」……他にもいろいろあるだろう)
逆に言えば、現代において弦楽器の代表格として誰もが思い浮かべる「ギター」がなぜこれほどまで発展・普及しているか、ということも、振り返って考えたくなる。
よく一五一会をちょっと弾いてみたギタリストが「ギターの方が弾きやすい」と言うし、確かにそういう部分があるのも認めるけれど、実はギターの演奏性を要求する「文化」がある、と思う。
一つは「汎用性」。
ギターにもギターなりの癖はあるのだけれど、とりあえず今あるかなり多くの種類の音楽(特にクラシックと対置するかたちで言われる「ポピュラー音楽」)に対応できる。
あと一つは、その汎用性を求める根拠は「科学主義」なのではないか。
民族音楽は、良かれ悪しかれ「自己中」「自己満足」な要素を持つ。
つまり、その音楽ではできるけれど、他の音楽には使いにくい、使えない、ということ。
科学の力によって、たとえば「平均律」ができたおかげで異なる調性の楽曲を、チューニングやフレット位置をいちいち変えなくても演奏できるようになった。
ある民族の持つ文化をすっかり表しきることはできないけれど、「似たこと」ならいくらでもできるようになった。
ギターは、そういう意味では「世界中で流通できる、世界中にある各地の民族音楽の入り口を示す」役割を果たすことができるのかもしれない。

もちろん、「民族文化」でなければいけない、なんてことはなくて、ギターならではの音作り、ギターの「癖」から始まった音楽性、というものも、たぶんここ100年ほどの間にものすごい勢いで展開していて、たとえばブルースのいかにもそれらしいフレーズは、実はギターのレギュラーチューニングだからこそ、ということもあったりする。

……ギターについて(偏った意見を)書きすぎた。

今わたしが問題にしたいのは、一五一会だ。

ギターについてやや詳しく見たのは、一五一会がそれと同じように文化の担い手であり作り手であることができるようになればいいな、という期待、あるいはできるのか?という疑問を検証したいと考えるからだ。

確かに、前の方で挙げた「ドンブラー」だの「ドゥタール」だのいう楽器は、日本人からすればかなりマニアックと思われるだろうし、もしかしたら「担い手」が減っていって「絶滅危惧種」になりつつあるものもあるかもしれない。
元々は一般の人が適当に手作りするものだった楽器が、いつしか専門家の手になるものとなったり、大量生産すれば手作りなんかするよりよっぽど品質もコストもリーズナブルなものが出来上がったりするようになってしまったり、という時代状況の中では、さらにマイナーな民族楽器は淘汰されていく一方なのかもしれない。
そんな中で「創作和楽器」なんて意味があるのか?

ギターだったら、教則本も映像も音源もいくらでもあるから、「独学」ができる。

けれども、少なくとも今は、一五一会に関してはそういう「情報源」はほとんどなく、いちばん確かなのは「それができる人」に教わること、しかない。
いや、ギターを弾ける人ならばほとんどの人が一五一会は何の練習もなく簡単に弾ける。
ただ、たとえばレギュラーチューニングしか知らない人は「1本指コードに飽きた」時点で終わりだろうし、少し変則チューニングが理解できる人でも「これは難しい、こんなんだったらギターの方がまし」としか思わないだろう。

要するに、「それでもこの楽器が好き」という人にしか、この楽器の本当の良さはわからないし、初めて弾く人に教えるにしても「本当はギターの方が簡単なんだけどさ」とか言って結局ギターに流れていってしまうようじゃ、教えたことにはならない。

いろんな意味で、ハードルは高い。

そうして、それらのハードルを越えることができるとしたら、それこそが「文化」なのだと思う。

フレットがない、ギターと比べたら弾きにくい上に出せる音が限られている(ようにぱっと見には思える)津軽三味線が今も伝えられているのはなぜ?

それを「必要とする人々」=「担い手」がいてこの楽器を究めたのだし、その結果としてかつてのように社会的に一定の「地位」(必ずしも高い地位のことを言っているわけじゃない)にある人がいなくなってもなお、津軽の人々のある種「民族的アイデンティティ」として受け継がれているのだろう。

で?

一五一会の「担い手」は、誰?


少なくとも、わたしはそのつもりだ。
いろんな音楽を、フォークやジャズや島唄やオリジナルや、たまにはロックもいいでしょう、J-Popってなんだかよくわからないけれど何曲かやってるし、……

今のわたしには、どんなジャンルの音楽を演奏しても、それは「一五一会の音」だと思うし響きだと思うし、一五一会の「癖」もわざと生かしたりしてもいる。

でも、正直なところ、まだ模索中だ。

(以下、今は力尽きたのでこれにて)


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