−最後の切り札−
INDEX − past − will
うん。いい話だね(^^) 『僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう。』 「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。・・・」 でも 『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』 「僕わからない。」 『僕たちしっかりやろうねえ。』 ・・・・・カムパネルラはそして。 気持ちはどんなにか「そうあれ」と願い、向かって行こうとしても、実際には何度も何度も自分のエゴとの闘いになる。 犠牲精神ではなく、天上への長く暗い道を歩いて行くことも自分で選んでいるのだから、そこに自分の幸いがあるか。なのだと思う。 自分を大切に出来なければ、他の人の幸せなど求むべくもない。と言うものも途上の邪魔をする。極端にどちらかを選ぶのではなくバランス。 その仕切ったラインの上をまたいで歩くわけだけど、歩く本人は一定に保たれない甘いものなので、右に寄ったり左に寄ったり。 時にその道から外れてしまいたくもなる。これが闘い。立ち止まれば足も疲れないし、先行く中で躓くこともないのも知っているから。 けれど進んでみないことには天上へも辿りつけない。ひょっとしたら行き着くことがあるとしても、そこは天上ではないかもしれない。 私のジョバンニも同じ思い。結局のところ、何もわかっていないし見えてもいない。けれどそれもカムパネルラと一緒なら。とそう思っているらしい。 暗くて長い道を歩き続けることが、お互いに決して楽ではないことだけは知っていて。正しくも間違いでも「確信犯」だ。 ただカムパネルラがそっと天の川のひととこに入って行こうとすれば、へたをすると一緒に入りかねないジョバンニ。けれど私はそれを望まない。 だから私にジョバンニがいるのを幸いと。そう思える間は、百ぺん灼かれてもかまわない。他の幸いは自分の幸いと。また一歩ずつ進むのだろう。 ほんとうのさいわいのカタチ。それが見えているわけではないのだけれど。 それが見えれば、それこそ切り札にも懐刀にもなるような気はするのだけれど。
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