他の人にとって「身内」というのは信用できるものなのであろうか。 私にとっては身内ほど信用できないものはない。
何故こうなってしまったのであろう。 問うまでもない。 幾つかの積み重ねでこうなったのである。
以前、こんな風に言われたことがある。 「お前は愛されたことがないから、『愛』が分からないのだ」
確かにそうなのであろうが、にしても随分な言われようではないだろうか。 私は恐らく一生この言葉を忘れないであろう。 そして恐らく一生、愛がどのようなものなのか 分からないままなのであろう。
けれど誰にも愛を感じないかというと、そうでもないらしい。 先日来の彼。 十年ぶりの彼とも言う。 「ぽっかり」とした空白は今やどうでも良くなってしまっている。 残念なことに、再来年までの彼とも言う。
この秋以降、私は幾度か泊りがけで西へ行く可能性が出てきている。 一度につき一週間ほど東京を留守にすることになる。
夜半、彼と「近くにいない」という距離感の話になった。
まったく連絡が取れなくなる地へ行くわけでもあるまいし、 そもそも十年も音沙汰なしだったのに何を今更、と思ったのだが、 先週末、彼が帰省することになって自分の中の何かがざわついた。
なるほど。 であれば。
予行練習をしよう。 再来年の春、彼と別れる予行練習をしよう。 彼が東京を離れるたび、繰り返し繰り返し。
何度も繰り返したら辛い思いに耐えられるようになるであろうか。 今のうちにたくさん涙を流しておいたら、 再来年の春に流す涙は少なくて済むであろうか。
愛がどんなものかは分からない。 別れがどんなものかは分かっている。
繰り返し繰り返し。 予行練習をしておこう。
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