ベルリンの足音
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女として生きるのは、結構大変だなと改めて思う。今になってこんなことを言い出すのは、もしかすると女として生きていくのに少し疲れたからかもしれない。
少女時代、同世代の男の子からからかわれて、よくスカートめくりなんていう遊びがあった。今から考えるとすごいセクハラだ。私だって何度も被害者になったことはあるが、被害者だなんていうのが気が咎めるほど日常茶飯事だったのと、相手の方も子供だったわけだ。同世代の遊び、嫌がらせ程度で済んでしまう事柄だが、思い出してみれば、なんとなく傷つくような屈辱感があったのは今でも覚えている。女の子がわたしのスカートをめくることはない。男の子なのだ。そして何色のパンツをはいているか、ブルマーをはいているか、そんなことを大声で言いふらされる。無邪気な遊びだが、本当に子供というのは残酷だと思う。
それが女として生きていく上での苦労に入るかどうかは、また別の問題だが、少なくともせいの違いによるハラスメントにあふれた未来を予感させるものがあるような気はする。
女性の美はとても重要で、紅一点や、女性の存在が花を添えるなどと言う表現もある。女性と言うのはふんわりした雰囲気につつまれ慎ましやかな存在であるほうが、社会的な受けはいいのかもしれない。そういう社会の見えない圧力、と言えば大げさだが、期待に沿うようにして私も大学時代をすごしたような気がする。綺麗な身なりをして、ダイエットに励んで、ほっそりとした身体に憧れ、男の人からは可愛いと思われたかった。本当の自分の中に、一体どんな性質が潜んでいようが、社会の期待に沿うほうが、当時の私には重要に思えたのだ。自分への評価がなされるような実績もない学生時代、手っ取り早く可愛いとか綺麗だといわれることで、自分を肯定したかったのだろうか。今になって思えば、おかしいほど子供じみているが、あの頃はそういう時代でもあった。
結局、よい結婚をしたいと言う単純な希望がずっと心の中にあり、まさか白馬の王子が来るとは夢にも思っていなかったが、恋におちてそれで結婚すれば、あとのことはそれから考える。
それ以上の思考は無かったような気がする。
その後学業生活を終えるのが惜しくて、大学院に行くという発展が、あまりにも私という像には模範的な方法に思えたので、心のどこかから湧き出てくるマゾ的な衝動によって留学することにしてしまった。無意識の中に、本当の自分を引き出してもっと独立した考え方をしないといけないという気持ちがあったのかもしれない。
女と独立と書くと、本当に何か矛盾した居心地の悪さを感じる。これはもしかすると私の内面の対立なのかもしれないけれど。
しかし、私の周囲の友人を見る限りでも、彼女達も同じ課題を抱えているのがわかる。保守的に育てられた私たちの世代が、大学時代バブルの最中に、羽ばたいていくという夢や希望を実現することが出来るようになった。キャリアウーマンという言葉が翻弄していた頃で、三高という言葉も生まれた。
みんな何らかの仕事に就き、それから結婚退職した人もいるが、昔よりはるかに子供を持たない友人達も多い。男との経験も少なくなく、それなりに仕事もしつつ適当に遊んだ後に、とても良い結婚をした人たちもいる。
でも、子供達を育てながら、キャリアを積み、素晴らしい夫に支えられながら、自分の道を貫いている、という友人が今、頭の中に浮かばない。
ベルリンの私の住む界隈には、こんな夢のような人々もちらほらいる。このような生活を試みた人、夢見ている人、という範囲にまで広げれば、90パーセントといっても良いのではないだろうか。子供を持ち、育児休暇を三年とった後に、同じ職場の同じポジションに戻れるという人は、ここでもかなり幸運である。さらに、子供を預けるシステムも日本とは比べ物にならないほど発達している。
それでも、人々は子供を持つか持たないかという問題を心の問題というよりは、経済的な思考によってごく理性的に判断しようという傾向が強い。
実際に、政治のシステムが子供を持つことを経済的に可能にしてくれないとか、共働きでなくては家族を養って行かれないという実際問題が、決して裕福ではないベルリンでは、当たり前の声となっている。
しかし、この傾向が、女性の独立という発展とまったく関係ないという風にも思えない。愛する人との間に子供が欲しい。この原始的な希望は、しかしごく自然ななり行きで、誰が不思議にに思うこともないだろう。しかし、子供は欲しいけど、自分の今の生活の安全や、自分のステータス・クォを失いたくない、という思考に発展していくのは、社会的問題ということと、女性性のあいまい化ということもあるのではないだろうか。
今の時代、私の周りの女達を見ていると、女は一体幾つの役割を演じればよいのだろうかと、ふっと疲れを覚えることがある。
彼女達の多くは、結構イカシタ格好をしているが、実に実用的なファッションが多い。昼間はバリバリと仕事をこなし、キャリアウーマンのように部下を従えていないとしても、立派な家計の稼ぎ手の役割を受け持ち、社会的な責任を果たして、税金も払っている。新聞も読めば世の中のことにも詳しく、政治的意見もはっきりと持っている。
午後になると、子供達を学校の託児所に迎えに行き、音楽教室やスポーツクラブと実に教育熱心な母親になる。この役割を素早く変える作業は、内面的に仕事上の自分をシャットアウトすることであり、良い気晴らしになることもあれば、それがなかなかできなくてストレスを感じることもある。
夜になると、夫が疲れて帰ってくる。多くの夫達は家事分担に慣れており、まるで遊んでいるかのような軽快さで、子供達をベッドに連れて行くことが出来るかもしれない。
しかし、その後、妻はさらに女の顔を取り戻さなくてはならないのだ。
理想的にいえば、社会にさらされている時のような合理的な考え方捨て、自分のキャリアに対するプライドも捨て、子供達と一緒にいるときに見せる母性も捨て去り、裸の女になって夫に甘え、誘惑できるとしたら、こんなすごい女はいない、と男達は喜ぶのではないか。
経済的にも自立してくれているし、子供達もしっかり教育しているが、僕と二人に時は、僕のものという欲求を満たしてくれる。
私の見る限り、この辺で自転車をかっ飛ばしている彼女達は、殆どこれに近い日常を過ごしている気がしてならない。
このロールプレイでは、ジェンダーの境界線はすっかり取り去られているのである。
更に、恐ろしいことに、母子家庭では、この女性は時に父親という生理的に越えられない境界線を少なくとも精神的には超えて、しっかりと演じなくてはならない。
この時代、女として生きるのは、本当に楽じゃないと実感するのも無理はないのではないだろうか。今では、もはや良い男性を見つけて結婚をしたいと言えば、アナトール地方出身のトルコ移民の男性でも見つけろといわれそうなのが、このベルリンの空気である。
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