ベルリンの足音

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2008年02月16日(土) 深まる孤独と戦う

常々このぐらいの年になってくると、人生どこまでも孤独がつきまうものだと実感する。

若い頃、実力以上の自信に支えられて、様々な可能性が目前に広がっていることは大きな快感だった。
辛い失恋を体験しようが、大失敗を犯して教授や上司に叱られ恥をかこうが、明日になればまた一からやり直せる。
そういう確実性があるうちは、孤独と折り合いをつけながら生きていくのはそう難しいことではないのかもしれない。

30の半ば頃だろうか、急に未来が狭まってしまったような間隔を覚えた。10年先にどうなっているか、さらに15年先はどうであろうか。そう考えた時、それはその道のりの上では様々な、予想の付かない出来事が起こるのであろうが、確実に現在と同じという事柄も多くでてくる。

家庭を持った以上、一応はパートナーと一緒にいることには変わりはないはずだし、子供がいればその子供は、確実に自分の下で育っていくのである。
学校へ送り出す作業や、解雇されるという事態に陥らなければ、仕事に行っている率も100パーセントに近い。
そうすると、日常にあまり変わりはないわけで、その中での可能性ということしか普通は考えられない。
それが心を息苦しくさせたのだろうか。

20代の頃のように、自分がまだ誰と一緒にいるのか、子供が出来るのか出来ないのか、果てはどこに就職するのかさえもわかっていない時代とは、はなはだその感覚に隔たりがあって当然だろう。

しかし、その頃からである。孤独感が募りだすのは。
孤独と引き換えに自由を手にすると先日書いたばかりであるが、今日は、自由が狭まった頃から孤独と対峙するようになったということを書いている。
結局、本当に自立した大人になって、人生の責任を全面的に自分自身で負うようになって始めて、自由の真価がわかるようになり、それと共に一人で人生を奮闘してゆかねばならない孤独に目覚めるのかもしれない。

とりわけパートナーとの間に感じる孤独感は、今の私の世代である40代あたりが一番強いような気がする。
見えなかった老いが、ちらっと見えたような気がしてくるのが40歳ではないだろうか。女性の場合、しわだとかたるみだとかいう問題が一番の現実かもしれないが、そういう身体的なことではなくて、自分が人生の折り返し点に立つと実感する時、老いという現実が遠目にだが向こう側に見えてくる。

仕事が満足がいかないから、方向転換したい。
そう思っても、今更大学に戻れる年でもない。生活上の責任ということもある。
パートナーと別離があったりして、一人でいるのが少し辛くなった。
そう思っても、とりあえずチャンスがあれば一緒になってみようという感覚で、取り組めるものでもない。
傷つくのも、つけるのも億劫だし、女性の場合は、それがやはりだめだとなった場合、時間をロスしたと痛みを感じるのではないだろうか。
さらに、やり直すといっても、もう子供を作って、本当の意味で家庭を築き直すということも生物学的時計の打つ時間というものが迫りつつある。

こういう現実を目の当たりにすると、老いという文字が急に映像化してくるような気がする。
そのときの孤独感は、夫婦で分かり合えないとか、子供と確執があるとか、そういう孤独感より更に一層深い。
命の限りを実感し、命の終わりが刻々と近づきつつある現実に対面した時の孤独感は、自分が一人の人間として、一人きりで地上に生まれ、一人きりで死んでいくだろう感覚を目覚めさせる。

ミッドライフクライシスという言葉の裏には、こんな深い孤独感、不安感が潜んでいたのかと、自分がその年齢に近づいてきてやっと理解できた。
ある意味、やけくそになったり、取り乱したりする人間もいるということすら自然に思えてくるから不思議だ。
それぐらい、ある人間にとっては、孤独感とは耐え難いものなのかもしれない。
しかし、所詮中年の危機で興した事業が成功するわけもなく、次から次へと新しいことへトライアルしても、それが本当に身につくのが難しいのが現実である。このあがきこそ、しかしまさに人間であることの証明かもしれない。
もう戻れない過去やもう持ち得ない若さへの、異常なる執着である。

ベルリンの私の住むこのボヘミアンな界隈では、多くの人間がこの30代後半から50代までの迷路に迷い込み、出口のわからぬままさ迷い歩いている。
しかし、どうも彼らは生物学的な若さを失いたいというより、孤独感に耐えられないと言ったほうが良いのかもしれない。
フリーランスでプロジェクトごとに仕事をして来た過去20年間。
家を買うでもなく、素晴らしい車に乗っているわけでもなく、もしくは結婚しているわけでもなく、子供がいなかったりする場合もある。
今まで一体、何を残して来たのであろうか、そう自分に問い続ける彼らに実感されるのは、深い言いようのない孤独感ではないだろうか。
それを肯定するために、彼らは頭脳を使った仕事をし、自分の存在価値を上げるために、自分にしかできない仕事をやり遂げようとする。
深い精神を持ち合わせてはいるが、自由と引き換えに孤独を買った人々である。それがこの時期になって大きな岐路に向かい合わなくてはならない。

家庭を持つなら今だろう。
財産を持ちたいなら今方向転換を決心する。
転職するなら今しかない。

様々な思いを抱えて、しくじったり成功したりするかわからない賭けに出る。
もしくは出ないのか。

しかし、孤独を抱えて自由の真価がわかるからこそ、自分自身と常に共にいることが出来るのである。
家族とか社会的システム、官吏システムなどに属して「安心」と「安全」と「共同体」という言葉を買わないからこそ、自分の魂を売る必要もないのである。
それが、根無し草といわれようが、自分勝手な生き方といわれようが、様々な生き方には、それなりの苦労があるわけで、決して非難できるという問題でもない。
自分自身といる人間は、自分に正直に生きていくことが唯一可能な人たちである。しがらみもなく、体裁も関係なく、経済的責任は自分ひとりにだけ課されたものであり、守るべき他の誰もいない。

彼らはそうして、更に孤独を貫く自由人と、孤独にこれ以上耐えたくなかった家庭遅れ組み、会社遅れ組みに分かれる。


自分の顔が毎日鏡の中で少しずつだが、確実に衰えていくのを見ながら、なんとなく沈んだ気持ちになるのは、身体的に老いる恐怖ではないようだ。

そうではなくて、刻々と狭まっていく人生の可能性の中に、自分の生きてきた意義、意味を見つけ出せるのか。
そう問いかける時の不安感である。
精神的な業績がよければよいという人もあるし、経済的成功の証明がなくてはだめだと感じる人もいる。

その内容はどうでも、これでいい。これ以外の生き方は無理だった。
そう言い切れる気持ちさえあれば、多少は救われるのかもしれない。

私は、それで問いかける。

これでよかったのか。
良かったという声と、もっと良いものがあれば、そっちを選択したいという二つの答えが聞こえる。
そういう複雑な基点に立っているのが今なのかもしれない。

ベルリンは来年で東西統一20周年を迎える。
しかし、私立ちの世代の人間は、未だに東ドイツ人、西ドイツ人という確実にわけ隔てられた意識を持ったまま、壁のない空間で共存している。
西の文化に順応しつつ、西のコンシューム社会を利用し楽しみつつ、それでも東の人間は東の人間が集まる飲み屋で一杯やることが多い。
西の人間は、旧東ドイツの人間と意見の食い違いがあると、彼らは東の人々だから…、という言い方をすぐにする。

いくら街が変貌を遂げ、時と共に新しく生まれ変わろうとも、人々の根っこは変わらないままだ。

結局本質は変化しない。
本質はどうしても覆い隠すことは出来ない。

孤独という本質を抱えている以上、私たちはそれと一生付き合っていくしかないようだ。
年々深まる孤独感に、あがいて対抗しようとする40代も、結局何時かは過ぎ去ってしまう。
孤独と自由、無常と普遍的本質など、世の中にはパラドックスなことばかりだと思う。

少なくとも、今まではこのようにしか生きられなかったと言い切れる自分は、まだ良い方なのだと思うことで、締めくくるしかないらしい。






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