ベルリンの足音
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2008年03月06日(木) |
離れて存在するときに、自分を救うには |
結婚に踏み切ったのは、一緒に歩むことを決心したからだ。基本的に、どんなことがあろうと、共に切り抜けるという決心をお互いに証明するため、私たちは契約を交わした。
それが、どんな運命の仕業か、私たちは別々に生活することを強いられている。毎日生活し、物を見て、人と関わり、責任を背負いながら義務を果たし、娯楽をすることで心を癒す。そのような何気ない日々の生活そのもの、またはその中で感じたことを分かち合えないという状況が、精神的に大変負担になることは多い。
心を分かち合うからこそ、互いの距離が縮まるのは周知の事実だが、日常のなかで常に共にあるということは、当然互いの存在が耐えられなくなるときもある。何をされても何をしても、相手の存在が自分をイライラさせる。しかし、それが突然自分の身の回りから消えてしまったとしたら、その喪失感は、日常生活に支障をきたすほど大きな影響を与えることもある。 結局、二人でともに歩むということは、相手の「気配」を常に感じ続けることに他ならないのだと気がついた。
気配とは、季節感と同様に、やはりすぐそばにあるという前提があって初めて感じられる類のものだ。夫婦や深くつながりあった恋人同士などが離れて暮らさねばならないということは、この気配のない生活を過ごしていくということではないだろうか。
私が本を読んでいる時に、別の部屋でテレビを見ている夫。私が外出している時も、今夜は一緒に夕食をとるという約束。普段は窮屈だと感じる寝室も、相手がいないとなれば、妙にがらんと感じてしまうから不思議だ。
しかし、たとえ何週間か互いに離れ離れになったとしても、そこにはまたいつ帰宅するという予定が交わされているはずで、その日を知らず知らずの間に心の底に刻んで日常を過ごすことで気配を保ち続け、実はどんなにか心の安定を支えているのか、普段はあまり気づくことが出来ない。
ところが、いったん離れ離れにならざるを得ない状況になるとする。お互いに違う国で、さらには大陸を隔てて生活しなくてはならない場合、帰ってくるという感覚は、住居を共有していた頃より大きく変化することになるだろう。
自分のなじみのない部屋に彼は暮らし、自分のなじみのない人間と、彼は日常を過ごしている。彼の喜んだり、不満を言ったりする姿を見ることが出来ない。 どのような生活をしているのか、具体的に想像することが出来ない。そこから小さな不安が生まれ、具体像のない物に対する恐怖から、心の安定が崩れていく。そうは言っても、確かめ合う手段は、言葉しかない。 言葉が発せられるというコミュニケーションの中で、その行間から、または声色から、なんとか自分の安定につながる「証拠」を見つけ出そうと体中をセンサーにしてみるが、どんな言葉をもってしても、本当の安定を与えるのは、結局自分の心だけだと気がつくまでに、そうそう長い時間がかかるものではない。
言葉は、それがコミュニケーションの媒体である以上、それを信じるという行為を徹底しない限り、言葉の信憑性というものに裏づけはないのである。そして信じるという行為の一貫性は、私自身の心の強さに依存しているというわけである。何一つ、運動機能的に確かめることが出来ない。
見ることも触ることもできないのだ。交わされる言葉の信憑性を計るために、電話の会話を繰り返しながら、聴覚の感覚を研ぎ澄ましていくら聴覚認識論的に分析しようが、メールや手紙を読んで、意味論的に証明しようとしても、何の役にも立たない。
私自身がそれを信じると、自分に対して強く決心し約束をするかどうかだけに関わっているのである。そして、いったん約束をするとしたら、その約束を破らないようにいかなる努力も惜しまないことだ。結局、それが信頼というものだろうし、遠距離でのコミュニケーションにおいては、この絶え間ない努力こそが相手に伝わることの出来る唯一の「気配」であることにおそらく間違えはない。
どの問題をどうとっても、二人でありながら一人であるというパラドックスを抱える愛の問題に対しては、自分自身の中にしか解決はないのである。そして実質上相手の気配を失うことで、自分だけとの戦いが始まる。それが一番辛いところなのだ。
つながり、絆、夫婦であることの意義など、二人で存在し、二人が公衆の社会に共に存在し、自他共に認め合う機会があるからこそ、確認しあえる事柄が、突如「観念」としてしか存在で着なくなるという事実。観念だけであっても、それが互いの存在に十分意義があるのだと信じ続けて疑わない自分。そういう強靭な自己を育てていくことこそが、孤独や距離に打ち勝つ唯一の方法なのだと、今になって実感として理解する。
では、どのようにそのような自分を作って行けばいいのか。日々は、不安材料に満ち溢れている。 ペシミストは、ある意味あり得る最悪の事態に関する具体的な心労を重ねているという意味において、実際にそのような自体に陥った場合、あるオプティミストよりも、よりしっかりと状況に対応できるという説があり、私もまんざら嘘ではないと思っている。 事実、私自身こそ大いなるペシミストではないかと思う経験を嫌というほど味わって来た。 しかし、最悪の事態までは行かなくとも、不安材料に事実何の根拠もないとしたら、そんなことにエネルギーを使って右往左往していると、恐ろしく消耗してくるものだ。何ヶ月かであれば、そうやって生きていくことも可能かも知れないが、何年にも渡るとすれば、どこかで方向転換しなければ、心が壊れてしまうだろう。
それで、私はペシミストでもオプティミストでもなく、つまり、事実をどちらの方向へも歪めて捉えることなく、地に足をつけて自己と共に存在し続けるにはどうしたらいいものかと、長いこと探り続けて来た。 その結果、自分自身は、その答えを日常の中に見つけようとしている。過去形で書かないのは、今現在、私がその方法を試している最中で、果たして私はこの安定を保っていかれるのか、皆目見当がつかないという状況にあるので、言い切れないのだ。
それでも、私は日常という私の存在の表面的「形式」に、固定した形を与えることで、自分を弱さと不安から救い、言葉というまったく根拠のない媒体に頼ることなく、信頼を保つことを実行している。
信頼、つまり相手や状況を信じ続ける行為は、決心だけに関わっているのだとは、先にも述べた。これは、結婚と同じで、この相手と決めたのならば、それに一生従うべきだという決心と結局同じことである。 ここが嫌、あそこが嫌というのは、一向に構わないが、一度決心したことは、基本的に貫かなくては何も成就しない。 唯一、それを貫く自分というものが崩壊したり、病的な構造をなんとか断ち切らなくてはならないなどといった場合以外は、決心したものを捨ててはいけないのだ。本来、決心とは、それほど重い意味を持ったものであるべきであろう。
起床時間、起床後の過ごし方、いつ洗濯をし、いつ掃除をし、いつ休憩し、いつ読書をするか。そういったことをこと細かく計画する。 そして、日常の行動を出来るだけリトスとして聖なる行動にまで持ち上げてしまうのだ。 朝起きて冷水で顔を洗うなら、必ずそれをやる。さらに夜寝る前にどんな順番で、顔の手入れをするのか、ベッドでは何時に寝るまで読書をしていいのか、どのテレビ番組だけは、必ず見るのか、また何曜日には花を買い、いつどんな紅茶を飲み、いつどのメーカーのコーヒーを飲んで、夜何曜日は、仕事の後に、お酒を飲んでもいいのか、事細かに決め事を作り、それをすべてリトス化してみる。 行動範囲では、通勤時間、通勤電車など以外に、自分の行くカフェやレストランを決める。そこで「いつもの」といえば決まった飲み物が出てくるほど、なじんでみる。何月末までにこの本を読み上げ、感想を書き上げる。こうした様々な目的を作り、一つ一つ必ず確実にこなしていくこと。
書きながら、これはすっかり仏教的な考え方だなと、外国に人生の半分以上を過ごしながら改めて自分の日本人の魂に気づかされる思いだが、まさに、こうした仏教思想的な瞬時に没頭するということが、いかに自分自身を支えてくれるか、驚くべき効果がある事に気づく。
コーヒーを入れるときは、美味しいコーヒーを入れることしか考えないのだ。そのあとは、お気に入りのカップでそれを楽しむことに没頭する。あらゆる煩悩を払えないからこそ、凡人は修業の代わりに生活そのものをまさしく儀式に変えてしまうことで、それを毎日やり遂げるという修業を自分に課すわけである。
例えば人生で辛いことがあったとき、何ヶ月も一つのことから立ち直れない時、ふっと座ったベンチの足元に、小さなクロッカスの芽を発見したとする。自分が一年の間も、この辛い問題を抱えて生きてきたことを振り返るが、世界は普遍性に満ち溢れていると気がつくのもこの時だ。自分の身にどんなことが起ころうと、春は必ずやって来る。それは裏切るということがない。 そして、先月よりは確実に強くなった太陽の光を頬に受け、地面の中から芽吹く力を目の前にし、自分もそろそろ立ち上がってみようかと思うことはないだろうか?
結局、最終的に救ってくれるのは、このような日常に満ち溢れた些細な事柄の中に隠されており、それが小さなきっかけとなって、自分が、自己を取り戻してゆくというのは、よくあることだと思う。
もちろん心には、大切な人が亡くなった時など、哀惜する時間も非常に重要であるのと同様に、思いつめたり思いを巡らせたりすることで、一つの輪となって、自分自身の思考がまとまっていくこともある。 しかし、この場合、愛という契約が交わされており、それが「観念」になってしまった場合を想定しているので、すでに思いを巡らせる余地はないのである。 愛という存在に、その存在の是非を問いかけたら、それは哲学になってしまい、何をもってしても証明できないという結果になる。神という存在は、存在すると思う者には、それは必ず存在し、存在しないと思う者にとっては、どんな言葉をもってしても、その存在を納得させることは出来ない。
愛の場合もまったく同様で、相手が自分への愛を誓っていると思えば、それは事実であり、そうでないと疑う者は、どんな言葉によっても慰められることはないのである。相手が自分の傍にいないからこそ、どんな行為も手紙や電話でしか確認できないからこそ、極端な話、事実を自分自身で構築していくことさえ可能なのである。
相手が、また自分の目の前に現れたとき、本当の真実は見えてくるものである。しかし、それまでは、私という存在を強靭に教育し、安定させることのほうがよほど重要である。 なぜなら、先に述べたように、この強い信頼こそが唯一相手に伝わることの出来る「身近な気配」になり得るのであり、それが相手の中の信頼をより強化し、自分の構築している現実と本当の現実との差を生み出さないための、最も重要な行為なのである。
言葉は、非常に必要不可欠な媒体であるが、心というのはそれだけでは表しきれないもっともっと深いところに存在する何かである。 だとしたら、自分自身の存在が最も「真実」なるものとして存在することで、それは言葉に頼ることなく伝わっていくのである。
すなわち、できるだけ邪心のない、静かなる安定した心で、自分自身の決心に従い、いつ何時も休むことなく、それを信じ続ける行為を続けることが解決なのだと、自ずと答えは出てくるのではないだろうか。
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