ベルリンの足音
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2009年09月18日(金) |
センチメンタルはダメ |
センチメンタルとセンシティブをはき違えちゃあいけない。
センチメンタルは感傷だし、センシティブは繊細だったり感受性が強かったり。
センチメンタルな会話はみっともないけど、センシティブな感性を持ったうえで会話をしたい。
センチメンタルに泣くことは一過性だが、センシティブな感性が震えて泣くときは、魂に影響がある。
感傷にも繊細さにも個人差がある。
けれど、繊細さの違う人間と会話をするとき、繊細に人の欲求は高まる。 結局、互いに決して歩み寄れない部分が残ってしまうからだろう。 繊細な人の感性は、繊細ではない人の感性に、しばしば傷つけられるし。
かといって、繊細であることで、感傷的思いに浸るのはいけない。
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結局、この2つの問題を複雑にするのは感情、フィーリングの仕業である。
感情的な絡みが複雑で、自分の感情をコントロールしながら話をする必要がある場合、センシティブにならなければ、大体ひどいことにはならない。
感情から引き出された感傷は、クラクラする。 どんどん酔っていってしまう。
感情豊かである証の、繊細な感性は、注意力と受容力が鋭敏になることとほぼ同様だ。 見えない心を察したり、言葉の行間を感じたりすることで、感情が動きやすくなるが、そこで、感傷にチャンスを与えなければいい。
繊細さは、また別に言えば暖かさでもある。 人の感情を汲み取る注意力と受容力があるということは、人間的暖かさでもある。 暖かさを恐れる必要はない。そうではなくて、暖かいコミュニケーションが及ぼす豊かな感情から出る、感傷に浸らないこと。
そこをしっかりわきまえていれば、自分が泣いたのは、感傷であり、一過性だってわかるものだ。 そうして、自分を注意深く見つめていれば、自分を見失うことはない。
感情を凍らせなくていい。 自分をハリネズミにする必要はない。 感情はすばらしいものだし、必要不可欠である。
感情を抑えることは、とても大きな過ちだと思う。
でも、感情に振り回されたらいけない。
そうしたら、自分はただの気分の奴隷。
私は、センチメンタルが嫌い。
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