蜜白玉のひとりごと
もくじ|かこ|みらい
もし宝くじが当たったら地元の商店街で本屋さんをやりたい。
お酒を飲みながらヘラヘラと話をして楽しんでいたとき、不意に口をついて出た言葉だけれど、「本屋さんをやりたい」、もう少し薄めれば「本屋さんがあったらいいのにな」というのは本当のことだ。
私が7年前に今の町に引っ越してきたとき、商店街にはまだかろうじて本屋さんがあった。おそらくだいぶ昔からあったはずで、店全体はすすけた感じに年季が入っていた。店先に週刊誌、入ってすぐにレジ、レジ奥の狭いスペースに店のおじさん(あるいはおばさん)、店の中心に背中合わせの雑誌棚、左右の壁ぎわの棚には文庫、実用書、学習参考書などがあった。どんな品ぞろえだったか、もううろ覚えだけれど、各駅停車の駅前によくある、こじんまりとした本屋さんだった。仕事帰りにふらりと寄っては雑誌を立ち読みしたり、変わり映えのしない棚をぐるりと見て回ったり、運よく文芸書の新刊を見つければ買ったりするくらいで、たいして気にも留めていなかった。
引っ越してきて2ヶ月たった頃、その本屋さんはひっそりと閉店した。
ここもか、と思った。町の本屋さんが苦しいのは、親戚が本屋さんだったこともあって、それなりにわかっているつもりだ。閉まりっぱなしのシャッターの前を通りかかって、ちょっとさびしいな、とぼんやり思った。ここが閉店しても本を買うことには今さら困らない。この店に何かの思い入れがあったわけでもない。そこはしばらくして学習塾になった。
それからずっと、本屋さんのない町で暮らしている。不便さはそれほどでもないけれど、とにかくつまらない。町に本屋さんがないってことは、ちょっとさびしいとか、困らないとか、そんなことじゃないかもしれないと最近は思うようになった。まったく文化果つる場所だ。本屋さんのない町のことを考えると、『流しのしたの骨』でのお父さんのセリフが浮かぶ。この話ではお父さんは息子の通う中学校のことをある理由で「文化果つる場所」と呼ぶのだけれど、まあこれはこれでぴったりくる。町の本屋さんはただ本を買うためだけの場所ではない。“本屋さん”あるいは“本屋さんが存在すること”にはたくさんの意味がみえる。
別にいいのだ。ふたつ隣の駅にある図書館へ出向いても、あるいは大きな本屋さんがたくさんある街へ出かけても。実際、今はそのように暮らしている。自分の住んでいる町に小さな本屋さんがほしいというのは、単なるわがままに過ぎない。
最初の酒場とは別のところで、もし宝くじが当たったら地元の商店街で本屋さんをやりたいんだよね、と、また別の人に言ってみたところ、当選金で本屋やりたいなんて人はじめて見たよ、と半ば呆れられた。悲しいのは宝くじが当たらないことじゃなくて、宝くじが当たりでもしなきゃ町の本屋さんはできないと思ってしまうことかもしれない。自分の住んでいる町に本屋さんがあったらいいのにな、と考えるのは、そんなに大それたことなのだろうか(ちょっと調べたらヤバかった、楽な商売なんてないだろうけれど)。
私は“町に本屋さんが存在すること”に何を求めているのだろうか。「居場所」とか「よりどころ」とか「交流」とか「コミュニティ」とか「発信」とか「地元活性」とかとかとか・・・、どれも“本屋さん”じゃなくてもいい気がするけれど、“本”ならあらゆること、全方位に何でもできる理由が付くから、やっぱり「本が置いてある場所」が魅力的なことには変わらない。
宝くじ、当たらないかなあ。
|