きよこの日記

2005年06月22日(水) 三島由紀夫『新恋愛講座 三島由紀夫のエッセイ2』

「また、読んじゃったよう」です。
好きだけど、私がなかなか三島由紀夫の本に手をつけないのは、限りある三島作品を読みつくしてしまう瞬間が来ることをすごくおそれているからです。

三島文学の集大成、豊饒の海4部作はもちろん、最後のとっておきのお楽しみです。
もちろん、三島氏は多作ですから、まだまだ読んでいない本、文章はたくさんあるのですが、それでも、年々既読の本が増えていき、終わりに近づいていくのは切ないです。

さて、恋愛についても一過言あります。三島由紀夫。
「恋愛学というものがあるとすれば日本人は、別れのさびしさをたくさんの歌に歌っていることで、恋愛学の大家ということができましょう。しかしだんだん西洋風な考えが入ってくると、恋愛というものをコンクリート建築や石造建築と思う人たちが多くなりまして、ことに女性は、台風があっても自信があっても、崩れないような建築の恋愛を望みます。それで男のほうも、ますます別れが難しくなってくるのであります。この建築のたとえがうまく言いあらわしているように、別れのむずかしさは、愛情の力よりも、習慣の力なのであります。」

そして、同時収録「終わりの美学」から、「学校の終わり」

「学校ではこのような、完全な羞恥心の欠如が許される。それが学校の精神病院である所以である。私は今でもはずかしく思うが,学生時代,専門外の仏文研究室へ飛びこんで
「先生、僕はゴーチェみたいのが好きなんです」
 などと、ゴーティエというべき発音を、ゴーチェ、ゴーチェと、ごっちゃごちゃに発音しながら、得意げに宣言しましたが、そのじつ私はゴーティエなんか、一度も読んだことがなかったのでした。
 それに対して仏文の先生は、まともに学問的な答えをして、
「あれはロマン派と自然主義の中間に出た作家だから不鮮明で、無視されがちで」
 などと、丹念に答えてくれましたが、どうして大学の中では頭の変な学生に対して、まともに答えなければならぬという社会的義務があるのでしょう。
 頭のヘンな若い連中の相手をしているのが好きな人たちだけが、先生という職業を選ぶのではないでしょうか?
 さて、問題は、この「学校のおわり」です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし、それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
 本当の卒業とは、
「学校時代の私は頭がヘンだったんだ」
 と気がつくことです。学校を出て十年たって、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、
「大学を出たから私はインテリだ」
 と、いまだに思っている人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがって彼または彼女にとって、学校は一向に終わっていないのだ、というほかはありません。」

すごいでしょ?
もはや痛快です。ばっさばっさと一刀両断です。
そして、本質的にすごく鋭いからニヤリとしてしまう。


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