2005年10月28日(金) |
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 |
この二人の会話が見ているレベルってやっぱり凡人とは違うな、と痛感。 お互いにすごい次元で(特殊な方向から)物事をとらえているのに、すごく共感して、通じ合っている感じ会話が進んでいるので、読んでいる私が置いていかれないように必死でついていきました。
面白かった。
話題はさまざまにころがるのですが、オウムの一連の事件について。 「村上注 オウムの物語の稚拙さについて でもそれと同時に僕はこの事件に関して、やはり「稚拙なものの力」というものをひしひしと感じないわけにはいかないのです。乱暴な言い方をすれば、それは「青春」とか「純愛」とか「正義」といったものごとがかつて機能したのと同じレベルで、人びとに機能したのではあるまいか。だからこそそれは人の心をひきつけたのではあるまいか。だとしたら「これは稚拙だから無意味だ」というふうに簡単に切って落としてしまうことはできないのではないかと思うようになりました。 ある意味では「物語」というものが僕らのまわりで――つまりこの高度資本主義社会の中で――あまりにも専門化し、複雑化しすぎてしまったのかもしれない。ソフィスティケートされすぎてしまっていたのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直して見なくてはならないのではないかとも思います。そうしないとまた同じようなことは起こるかもしれない。」
人の中にある物語が「空洞化」していた、というように私は理解しました。
いくら高尚なものであっても、また高尚であるものほど、それを受け止めるには受け止める側の力がそれに見合うものになっていなければならないのです。 でも、その力は一朝一夕に身につくものではなく、稚拙なもの、単純なもの、青くさいものを味わい、それを卒業することによって身につくものでしょう。
ところが、現在の社会では、一足飛びに専門化、複雑化したものを突きつけられ(求められ)、慣らされている。
そのため、かつては当然経験し、卒業しておくべき「稚拙な物語」が、未経験で新鮮な魅力を持ったものに思われてしまう事態をひきおこしている。
私は中学生を相手にしていて、似たようなことを思います。 それこそ、「正義」「青春」「道徳」といったような稚拙なことを生業とする日常は、自分でもばかばかしく思ってしまうことがあるのですが、彼らにとってその「稚拙な物語」を一度引き受けることが、そして、そのばかばかしさに気づき、批判し、卒業するという一連の経験をすることが、発達段階の中でとても大切なことなんだろうなと思います。
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