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■ つながり考(仮)
「ママ友」という言葉が嫌いだ。 ママ友という存在が嫌というのではなくて、ママ友とか言ってしまう心性が嫌い、といいますか。 まあママというのも属性の一つではあるわけですが。もっとも私は「おかあさん」ですが。私がママを自称/他称するとしたら、それはスナックとかバーのママだな。
昔、松浦雅也氏が、人間は後天的な部分でしか盛り上がってはいけない、というようなことを言っていた。 「盛り上がってはいけない」ではなかったかも知れないが、そんな意味だったと思う。人との結びつきというのは、趣味が合うとかではなくて、ウマが合うからということに拠るべきなのだと。 その時私は中学生だったか高校生だったか、趣味が同じということだけで舞い上がりがちなお年頃だったので(そして思いっきり趣味の話をしてみたいとも思っていたので。自意識過剰だ)、そうなの?と思ったものだが、今はその言葉の意味がとてもよくわかる。
学校や職場が同じだと、共に過ごす時間が長くなるから、お互いについていろいろと知る機会も増えよう。そもそもだいたい同じ場にやってきた時点で何かしら共通する属性があるのだから、ウマも合いやすいように見える。しかし環境が同じだからといってオトモダチになれるかといったらそういうわけでもないだろう。 いろいろな利害関係の中で生きていて、その場にふさわしいつきあい方を最大公約数的にしていくだけだ。それはもしかすると割り切りというものかも知れない。 こんな風に書くとものすごく冷たい人間のようでもあるな。 でもだんだんそんなサーフィンもうまくなって、嫌いな感情しか持てない人っていうのもそうはいないのだ(どうにもげんなりしつつも、別の部分で愛らしさを感じたり、あるいはお世話になっていることに素直に感謝できていたり)と知る。 更に、一見割り切った中から何か思いがけないものが生まれとしたら素晴らしい。
Kには血縁上のおばちゃんが1人と、おじちゃんが2人いる。 おばちゃんは義妹(私の上の弟の配偶者)である。下の弟が結婚したら、おばちゃんはもう1人増えるだろう。それ以上は増えない。 りー氏の両親も私の両親も隠し子がいたりするようなタイプではないので、血のつながっているおばちゃんはそんなわけなのだが、そのかわり血のつながっていないおばちゃん(漢字で書くなら「小母ちゃん」か)がいる。未婚だったりする女性たり(1人は既婚者だが、出産経験はない)をおばちゃん呼ばわりするのは失礼きわまりないが、たぶん許されるだろう。 Kの、血のつながっていないおばちゃんは、この間までは2人だったのだけれど、このたび3人になった。
共通の知り合いから「話が合うと思う」とお互いに言われてきたNさんと、先日初めて会う機会に恵まれた。 会ったことはないと言っても、書いた言葉でのやりとりはあった。 遠くから来てくれたのに、行ったところといえば普段私が行っている場所ばかりで、それはそれで恐縮なのだがそれを嬉しく思う気持もあった。しかもとても気持よく食べてくれるので、どーなつ屋さんにまでご一緒してしまったのだが(おやつ用)、その翌日どーなつ屋さんに、実は昨日初めて会ったんですよね、と言ったら「え、すっごく仲良かったよ」と驚かれた。
楽しくて、センチメンタルな時間だった。 「話が合うと思う」と彼女と私をけしかけてくれた人々に感謝したい。
2009年02月25日(水)
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