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まどろみに見る過去。 | 2008年06月01日(日) |
彼女には五つより前の記憶がない。 はじめの記憶は大樹の蔭で、赤茶の髪をした派手な印象の女性をじっと見上げていたときのものだ。 しばらく見つめあった後、女性は困ったように頭をかいて彼女に手を差し伸べてきた。思わずそれを掴むと引っ張り上げられ、引きずられるようにして大樹の傍から引き離されたことを覚えている。 その次に鮮明な古い記憶は、黒髪の美しい童女との邂逅だった。大きな緑色の瞳は意識を惹きつけて離さない強い力を秘めていて、彼女は吃驚しながらその眼を見つめ返していた。 けれど時折、本当に稀なことだったが、それより以前の記憶がそっと意識にのぼることがある。ゆめうつつにまどろんでいるとき、堅く閉じられている箱が溢れんばかりの中身に耐え切れずそっと開くかのように、それは彼女の心のうちに零れ落ちてくる。 ゆらゆらとゆりかごのように揺れる長椅子に腰かけた男が彼女を手招き、膝の上に乗せていた。 父親がいればこんな風にあやしてくれたのだろう、彼は優しく彼女の頭を撫でていた。 そう、彼は彼女の実の親ではなかった。親のように可愛がってはくれたが、彼女は彼のことを父とはけして呼ばなかったし、彼は自分のことを無理に父と呼ばせようとはしなかった。 呼びたいと言えば許してくれたのかもしれない。おそらくは許しただろう。彼は彼女のことを実の娘のように思っていると、彼女に何度も語ったのだから。 けれど彼女は彼のことを父と思うことはなかった。彼のことは好きだったしとても感謝していたが彼は家を空けがちで、実際にこまごまと面倒をみてくれたのは別の人物だった。けれどそのことはさしたる問題ではない。 彼女が彼を父と呼ばない理由は別にある。 同じ家には、彼の妻と血の繋がった娘がともに生活していたのだ。 一つ屋根の下とはいえ行動範囲が被ることはなく、彼女たちと見えることは殆どなかった。ときたま出会う彼女たちはとても優しく、同い年の娘とは遊んだこともあるが、どこかよそよそしい壁は消えなかった。 夫が実の娘と同じくらい彼女のことを気にかけているという事実は、妻にとって親のない子供に対する同情心よりも警戒心を呼び起こすものであったのだろう。彼女はいつも優しかったが、ただそれだけだった。 彼女の方も、妻子に対して何かを訴えることはなかった。夫婦と子供という幸せな家庭に羨ましさと寂しさは覚えたが、彼女に向かってその扉は開かれていなかったし、それに何より、自分の両親のことを思うと、そこに混ぜてもらいたいと思ってはいけないような気がしたのだ。 ゆったりとからだが揺られ、幼い彼女は眠気を覚えて目を擦る。 丁度やってきた少年が男から彼女を受け取り、ぽんぽんと背を叩いてあやしながら寝室へと向かってゆく。 眠りに落ちる過去の意識とは裏腹に、現在の彼女はゆるりと夢から意識を醒ました。 ****** 記憶喪失と転生ネタはそれほど使わないんですが(特に後者は読む分には嫌いではないけれど自分ではあまり書こうという気がしない)、そういえば記憶喪失なやついたなぁと思い出しました。 そういえばアニティアはてきとーに音ひねくり回してつけたんですが検索かけたらサンスクリットで無常とか出てきて吹いた次第です。 同じ作品内でいくとシアシェも音感だけでつけたんですが(10年近い前の話)(人名事典使い始めたのは5、6年ぐらい前から)、xiaxueと書くと中国語で下雪(=雪が降る)との意になるらしくてへーと思いました。 偶然とか無意識というのは案外侮れない。 |