宙に浮く舟のへりに腰を下ろしたまま、高杉は空を見ていた。 正確に言えば、空から彼を照らす満月を見ていた。 欠けることのない円。曇りなき金色の光。 それは、同じ舟の向こう側で斬った斬られたを繰り返す 同胞や桂たちにも、勿論高杉にも、平等に明を与える。 彼らの起す喧騒をよそに、高杉はふとそう遠くない昔のことに思いを馳せた。 そう遠くない昔。たった10年ほど前のこと。 そして、その時から彼を捕えて離さない、今では遠い女のことを。
その時、彼はふと、ある匂いを捉えた。 片目を失ってからのち発達した彼の嗅覚が察知したそれは、 懐かしいようでもあり、未曾有のものでもあった。 彼がそのように感じたのは、その匂いが既知のものでありながら 嗅覚が発達して以後には嗅いだことのないものであったらからであろうか。 しかし、彼はそこに存在する全ての理屈を取り込むことなく、 あの女だ、と確信していた。 祭りの夜に別れたきりの、美しい女。 天から降りてきたような女。
その女、紅里は、天からではなく、舟の向こう側からその脚をもって姿を見せた。 無論彼女にも、例外なく月光が降りそそぐ。 白い肌、あかい髪。口元とその身に纏った真紅がよく似合っていた。 合わさった目線を離さぬまま、二人はほんの数秒間動きを止めた。 揺るがない紅里の瞳とはうらはらに、 高杉は思わず目を見開いていた。 それは単純に驚いたからであった。紅里との再会にだけではない。 「この女が」俺を見つけた。 「俺が」この女を見つけるのではなく。 天から降りて。
次の瞬間、高杉は取り繕うようににたり、と口元を歪め、言った。
「お前は来ないと思っていた」
それは紛れもなく彼の本心であった。 岡田が桂や銀時に手を出したなら、紅里の耳にそれが届くこともあるだろう。 しかし、来ないと思っていた。 彼女が高杉を厭うていたからである。 だが、彼女は来た。 そして、彼の名前を呟いた。 待っていたのだ。そう高杉は思った。 彼女が来るのを、その時が来るのを、待っていた。 追いかけ続けたその足を留めて、待っていた。 来ないと思っていた。でも、待っていた。 それも紛れもなく、彼の本心だったのだった。
紅里がどういう思いをもって彼の前に現れたのかなどを考えることなく、 彼はただやってきたその時を祝福した。 その一瞬、彼はまたその心の最奥を目の前の女にさらけ出し、 それに従順に言葉を紡いだ。 待っていたと。この時を。
それでもそれは一瞬のことであって、 時計の秒針が一単位を刻むより早く、彼はまた元の自分を取り戻していた。 そして、全てを月の所為にしたのだった。 既に彼は自分と対峙する女がここにいる目的を見い出すことに意識を傾けており、 自分が数分前にこぼした言葉の次を探していた。 しかしその一方、頭がそのように目まぐるしく回転する裏側で、 消えることのない思いが漂っていたことを、高杉は黙殺し続けていた。
待っていた。 もう一度、お前が天から舞い降りるその時を。 例えそれが、俺のためでなくても。
彼が、その次の言葉を持つことはなかった。
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