「あー、やばいなあ」 「は?」 「今ね、すっごく阿部のこと抱きたい」
自分で言ったのにね、と涼子は呟いた。 しかしそれが言い終わるか終わらないかの内に阿部が彼女の身体を引き寄せ、 言葉は空気に溶けて消えてしまった。 ぎゅう、と彼は涼子の身体を力いっぱい抱きしめてから、 少し引いて、彼女のくちびるを吸った。 ちゅう、と音がして少し恥ずかしくもなったけれど、 いつも大人ぶって涼やかな顔を崩さない目の前の女が少しだけ紅に染まったのを見て 次第にそんなことは気にしなくなっていた。 啄ばむように吸って、その内舌を入れて、絡めて。 自分からキスをしたのは初めてで、阿部はただただその中に飲み込まれた。 侵入をやっと許した涼子が、自分を抱きたいと言った涼子が、今何よりも愛しかった。 彼らの唾液は混ざり合って、繋がった部分から阻まれることなく伝い落ちる。 息をする瞬間にふとそれを見て、いやらしいな、と彼は思った。
と、ぐっと強い力で阿部は胸を押された。 無論、それは涼子によるもので、彼の頭には何で、とクエスチョンマークが生じ、 それは実際声を通じて涼子に伝わった。 涼子の頬はまだ赤い。
「ここまで」 「…何でスか!」 「これ以上はほら、止まんないしょ」 「今だって止まんねッス」 「でもダメ」 「だから何で!」
咄嗟に涼子の肩を掴んだ彼の腕を、彼女は難なく払った。 刺した朱はまだ消えることはなく、それは彼女がまだ先程の興奮を引きずっていることを示していたが、 彼はそれに気付くことはなかった。
「抱いたら終いだよ、阿部」 「は、意味わかんね…」 「まーあんたは初めてだからねー、そういうとこ、初々しくていいけど、さ」
理解を示さない阿部を映した涼子の瞳は少しうるんでいた。 彼女はじっと彼を見つめたままその左の手をとり、 いつか彼が監督にされたように、 また彼女が既に世に亡き恩師にされたように、 ぎゅっと握った。 何かを伝えたいようでもあったが、 実際は伝えたくもないことばかりが彼女の頭には蘇っていた。
「あたしさ、あんたのことダメにすると思う」 「は?何スかそれ」 「んー、今までずっとそうだったんだよね、付き合った奴付き合った奴みーんなボロボロ」 「ボロボロって…」 「あたしもソフトやってたしさ、やっぱ野球好きだしさ、野球部の奴とかと付き合ったりもしたんだわ。 野球部だけじゃなくて、サッカーとかバスケとか、まあ、目ぼしいのは結構制覇したんだけど」 「…そんな何人もと付き合ったわけ?」 「そうだよ、そういう女なんだよあたし。でね、こう、部活一筋!みたいなスポーツマンをさ、 あたしがボロボロにしちゃうわけ、なんつか、精神面で。 最初は割といい感じに青春してるんだけどね、やっぱ、寝ちゃうとだめだったね、あれ。何でだろう」
魔性だからだ、と阿部は思った。 篠岡や百枝や、クラスメイトの女子と違って、彼女は非常に「女性」溢れる女だった。 綺麗に染まった茶髪や、耳や首元を飾るアクセサリーもそうだったし、 きっちり施された化粧もそれに加担していた。 でも、部活では邪魔にならない程度に抑えているのだから、 やはりこれは彼女の一つの素質なのだ、と彼は結論付けた。 内面は中学までの運動部根性の残り香がしたし、 腐っていた時期に培ったのか、口の悪さは部内一だろう。 それでも彼女の仕草や他の何もかもに、女を感じた。 奥底で覚醒を待っている、自分の雄を、彼女はすくい上げるのだ。 その行為が完了してしまった時、己はそれを制御出来るのだろうか。 涼子が言っていることが何となく分かったような気がして、 阿部は後悔した。分からなければよかった、と後悔したのだった。
「だからさ、ダメ。あたし今回はそういう風にしたくないんだわ。 阿部にはあたしを甲子園に連れてってほしいし、野球に打ち込んでほしいし」 「でもオレ、こんままじゃ余計に…」 「ん、そーね…まあ、チューまではオッケーってことにしよっか、ガス抜きに」 「止まんないときは?」 「鉄拳制裁、容赦ないからね」 「…」 「そんでさ、んー…、ちゃんと付き合おっか」 「え?」 「曖昧にしとくより安心じゃない?」 「あ、いや、そうだけど…あの、いんスか?」 「ん?」 「オレ、榛名じゃないけど」 「!」
握ったままの手はもう熱いくらいに温度を上げていた。 自分にとっては小さなことを、彼がひどく気にしているのを知って、 涼子は口を緩ませた。 それは経験値の差からくるものかもしれないし、彼の存在しない2年間からくるものかもしれない。 どちらにしたって彼女にとっては羨ましいことで、懐かしいことだった。 彼女はまた、彼を抱きたい、とそう思ったけれど、口には出さなかった。 今まで自分を抱くことで信念を崩していった少年たちの姿がまた脳内を駆け巡る。 阿部がその一部になることを、彼女は恐れていた。 しかし、その一方で期待していた。 彼女の魔が、彼を侵せないことを。それを彼が証明してくれることを。
うん、と言葉を返しながら、涼子は繋いだ手にもう一方の手を添えた。 伏せた目を上げると、夕陽の茜色が阿部を染めていた。 その赤で燃やしてほしい、と涼子は思ったけれど、それも口に出すことはなかった。
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