「初めて人を殺したのは、12の頃だったわ」 「母親を殺した男を殺したの。私はその時から忍だった」
淡々と語る千代は恐ろしく美しかった。 赤い満月の光がその白い肌を照らし、闇との対比を際立たせていた。
そういえば、自分が12の頃は何をしていたのだろう、と彼は記憶を漁った。 当時彼はこの学園の3年生だっただろう。 まだ生死に関わる任務についたことはなく、師の教えを乞いながら、友と戯れていたに違いなかった。
学園に入ってからの彼の生活は安定していた。 みなし児の孤独も、寺で受けた屈辱も、ここでは思い出すことがなかった。 優しい人々、優しい生活。 昔を思い返すことが多くなったのは、千代と関係を持ってからだった。
「あなた、苦労したのね」
事務室の窓口から、彼女が放った最初の言葉はそれだった。 何のことだか理解しない自分をよそに、彼女は続けた。
「同じにおいがするわ、私と」
そう言って、千代はにやりと笑った。 薄く塗られた紅が艶やかだった。 伊作はその瞳を知っている、とその時初めて感じ、 忌まわしい過去の渦に身を投じることになった。
男の手、いやなにおい。汗か、唾液か、それとも他の何か。
我に返るまでにどのくらいの時間があったのか、彼にはわからなかった。 ただ、ぱん、と両頬を挟むように軽く叩かれ、伊作は現に戻ってきた。
「大丈夫?」 「…はい」 「ごめんなさいね、私の所為だわ」
真っ黒な瞳は、その時何を考えていたのだろう。 何も思わないふうを装う彼女から、いろんな感情が漏れ出ているように、伊作は思った。 哀れみ、同情、同調。 それが何であったのかは、今でも知ったところではない。 ただ、吸い込まれるように伊作は千代を見とめた。 しっとりと濡れるような気にあてられて、徐々に伊作は彼女を欲しいと思うようになったが、それは無理ないことに違いなかった。 彼女はそういう類の女であったし、伊作は最もそれに惹かれやすい男であった。 何よりも近似した過去が、彼らを、伊作と千代を、どろどろとした依存の世界へとおとしていったのかもしれなかった。
「私は、まだ人を殺したことがない」
12で人を殺した女を前に、彼はそう呟いた。 千代はそれに驚く様子もなく、目を合わさずに言う。
「そうでしょうね、その方がいい」
ぽろりと零れるように彼女の口から発せられたそれを聞いて、伊作は胸が熱くなるのを感じた。 同じ過去を持つことだけが絆であった。 彼が人を殺したい、と思ったのは、これが初めてのことだった。
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