I think・・・(かくれ対人恐怖症にっき)



 感じる

どんな立派な格言を知るよりも
何をそのとき自分は何を感じたかの方が
きっと大事なことかもしれないね。

こんな頼りない生牡蠣のような感性でも
分厚い立派な書物よりも
ときにはあてになる。



感じることは根。
知識として学ぶことは花。



2002年06月24日(月)



 ぐらつかない

人は必ずしも正論を受け入れるわけでなく
感情が許せることを受け入れる。

たとえ、正しくとも表情が固いひとよりも
ちょっとばかり間違っていても、笑顔でリラックスしたムードを
あたえられるひとのほうを支持するもの。

人間関係のjudgeは
点数をつけられる部分とつけられない部分が
存在するけれど
点数をつけられない部分が高い人は
生き方上手な人なんだ。


こんなことをいつも思うけれど...


たとえばすごく生き方が下手でも
ありのままの自分を出して
人に受け入れられなかったとして
いちいち心をぐらつかせることはないよね。

ありのままの真心で接しても誤解され続けるときは
そのときはそのとき。
仕方がない。
「真心で接する」ところまでは自分の領域。
だけど、そのあと受け入れるか受け入れないかは
相手の領域。
受け入れられても受け入れられなくても
自分のせいではなくて、そっからさきは
相手の問題。

こう思うことは
ずうずうしいのでなく
自分を信頼していける道じゃないのかと思う
むずかしいけど・・・ね。




2002年06月21日(金)



 会話

今日は久しぶりに晴れね、

そうね、すがすがしくって気持ちいいね!

洗濯もの、一気にかたづけなきゃ・・・



隣に住む人とほんのちょっと
朝の短い会話。

昨日の天気とうってかわって
ほんとに気持ちのよい青空。
10秒くらいの会話だけど
お互いに、うれしい気持ちから自然に出たことば。

たわいもない共感が逆にうれしい。



2002年06月19日(水)



 

たくさんの人前に出ると
自分の欠点がよくわかる。
だから、ちょっと苦手でも
大勢の人の前には自分にとってプラスになると思って
滝にでもうたれにいくみたいに
人に揉まれにいってみる

大勢の前が好きだから人に会うのじゃなくて
何でも自分にとっての訓練とか修行だとか思わなければ
それが出来ないのは、
なんだか堅くて苦行じみてて、
自分自身の
そういうところがキライです。

欠点と長所は紙一重だと思うんだけど
自分には適用できないルール。
自分の欠点は欠点にしか見えない。
それも向上心のあらわれだ・・・
と言い聞かせてみるんだけど
そういうまた心に枷をつくるところが
やだな・・・もう・・・
と思ったりして。


2002年06月17日(月)



 ドア

他人がどんなに素晴らしくともやさしくとも
人の心はあけられないことがある。

きっと・・・きっと・・・
心のドアは内側からしかあけられないのかもしれない。
そう、自分自身があけなければ。

開けるも開けないも自分の自由。

そう思ってみると
なんだか気持ちがも軽くなって
ドアをあけられそうになる。


2002年06月13日(木)



 コントローラー

TVのチャンネルをコントローラーで変えるときおもった。

世の中の人はコントローラーで
わたしはテレビ。
人はそれぞれ、自分の価値観でもってコントローラーを
操作する。
ある人はこれが良いと言いコントローラーを「ピッ」
ある人はそれはダメよと言いコントローラーを「パッ」
わたしは振り回されて自分の意見に
どんどん自信がなくなっていく。
ああどうしよう・・・・

人それぞれいろんな価値観や考えがあって
一見どれもよさそうで正しそうで
自分だけが情けなさそうで
どうしても振り回されてしまうけれど・・・

なんだかわたしは自分の力では何にも映し出せない
テレビのようで悲しくて。

そろそろ他人のコントローラーに
すべて過剰反応するのをやめなくては。

考えてみれば、人と考え方がちがうのは
あたりまえのことで。。。
わたしがわたしである証拠みたいなもんだ。

だれかがすてきだと言ってくれるふうに生きる
だれかの価値観のピントにあわせて生きる。
そうしたらその「だれか」には
賞賛され好きと言われるかもしれないけど
その「だれか」がいなくなったら
足のつかない海で溺れるだけになってしまう。


価値観も生き方も幸せも
人によってコントロールされたり
もたらされるものではないんだ。

もしすべて他人によってもたらされるとしたら
それは単なる「囚われ」にすぎないのかもしれない。



2002年06月11日(火)



 ミシン

ああすれば、もっとこの人はよろこぶのだろう、
こうしたらもっと役に立てるのだろうな
と思うことは
たくさんうかんでくるのだけれど
そのことがきっかけで
人と距離をつめることになるのを
おそれてしまってわたしにはなかなかできない。


この間、ある人からミシンがないから
「ミシンを他の人に借りることにしたの」という話を聞いた。
それなら、わたしの方が近いしミシンをお貸ししましょうか?
ということばが喉元まででていたのだけれど・・・
この人はもう借りる人を決めたんだから・・・
と思ってその言葉はのみこんだ。

というより、
埃をかぶったコンセント、
操作説明書がしみでよごれていること、
なんかがふと気になって
役に立ちたいキモチ>やっぱり何にも言わない方が
いいというキモチになってしまった。


そのあと、一週間そのことが気になり続けた。
気になる、というより苦しむと言った方が
いいかもしれない。
その人が他の人にミシンを借りるまでが
その時から一週間後だったから。


わたしが貸してあげればいいのか・・・
もう借りちゃってるかもしれないけど
申し出るだけ申し出てみるか。
持ってるのに、家が近いのに
何にも言わないなんて、水くさいのではないか?
わたしは、たしかに+αの会話が苦手。
でもだからといって、人として飾り気なく
人の役に立ったらうれしいという感情まで
その苦手意識のためにおしこめてしまうの?
もしそうだとしたら、あまりにもさびしいこと。。。

だけどこの前は言わなかったのに
今更言うことにも勇気がいった。
葛藤したけど結局
人の役に立ちたい感情よりも、
汚れた操作説明書によって
さらけ出されるものへのためらいのほうが勝ってしまった。
いいえ、
たとえ操作説明書が汚れてなくとも
ひとこと声をかけるのには一筋縄では
いかなかったでしょう。

人とふれあっていくことは、うれしいこと。
人が喜んでくれることはそれ以上にうれしいこと。


しかしそれとはうらはらに、
人とふれあって
徐々に自分の個としての部分を
あらわにしていく過程が
とんでもなく勇気がいり、
易々と口に出来ないほど心にずっしり
負担になる。

なにも隠し立てするようなことがなくとも
いろんなことをあけすけにするのが
居心地がわるいことなんだ。

今のわたしは・・・
やっぱり声をかけなかったことには正直
ホッとしている。
いつまでもこうはありたくないけれど
すぐにはまだ殻を破れない気がしてる。
ゆっくり・・・いつかはきっと。
すべての行為に説明がいる変形人間の自分に
少々疲れてもいる。


2002年06月10日(月)
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