呟きは呟きとしてツイッターに放り込んでおくとして、字数が超えそうなことは日記に書きましょう。
実はブログをいろいろと選んでいました。だけどそのこと自体に疲れてしまって、結局いちばんシンプルで、いちばん長く書いている「エンピツ」にもどって来ました。ブログはあきらめました。
読書のこと。 例によって併読を続けています。自分が書いている作品の資料としての併読ではなく、ランダムに選んだ本を何冊か同時並行で読んでいます。このやり方の面白いところは、系統の全く違う本の内容がアタマの中で「化学反応」を起こすこと。なんともいえない何かホログラムのようなものが立ち現れそうになるのです。それがおもしろい。
それとランダムに選んだはずなのになにかがシンクロしていたりすることもあります。これは時として微笑の対象になります。
で、今。 「生の裏面」李承雨は別として、たまたま読み出した「犬の力」ドン・ウィンズロウと「『雨の木』を聴く女」大江健三郎がシンクロしていました。 もう一ついえば、いまだに悪戦苦闘しているマルコム・ラウリー「火山の下」ももちろんシンクロしています。
キーワードは「メキシコ」。またの名を「死の国」。 そして「交錯する人々」。
20世紀を代表する傑作の一つ(奇書の一つとも)といわれる「火山の下」が、大江さんのこの好む本である事は知っていたけれど、「雨の木」のなかで直接言及されている事は知りませんでした。しかもかなり重要な地位を与えられて。
で、「読みにくい」というと身も蓋もない「火山の下」の、ディテールにこだわりつくす饒舌の極致といった文体が、(主人公がアル中なので余計に)大江さんの文体に通じるところを感じたのです。とにかく言葉がわき出てくる感覚。
そしてそれは読むぼくを書く事へ誘う文体でもあるのです。 指が錆び付いた人間が日記を再開するほどの。
「犬の力」はメキシコの麻薬戦争をめぐるミステリです。文体はいちばん「読みやすい」。物語もしっかりしています。 大江さんがメキシコで講義をされていた頃に迷い込んだ劇場のある下町のようなところが舞台です。メキシコシティーではありませんが。強烈な情景描写が目をひきます。
このように「メキシコ」の上に何枚もレイヤーを載せていくような読書です。
しかしながら文章の魔力といいますか、吸引力、粘着力。時として人の価値観を揺さぶる異化する力。 魔的な力というのは大江作品にあるように思うのです。繰り返しになりますが大江さんの作品は人を創造へ誘う力があるように。
マルコム・ラウリーについては、もう途方もないです。大江さんのような文学的ポテンシャルの持ち主にとってこそ輝き出す作品なのでしょう。 ぼくはひたすら幻惑され続けているのです。
そういえば李承雨の作品も饒舌です。一つ一つ「自分」を確かめながら前へ前へと進んでいく小説。面白いです。 その「生の裏面」とシンクロしている、と感じたのが、読み始めたコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」。主人公の生い立ちの苛烈さにおいて。 神話的原器でもあるのか、と考えてしまうほど。
で、考えてみればアメリカ・メキシコ国境はマッカーシーのいくつもの作品の重要な舞台なのでした。
こんなふうに併読をしています。 もたらされる「像」を楽しみにしながら。
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