散歩主義

2012年06月22日(金) 核の檻

国会の会期が不自然なくらい長く延長された。懸案だった消費税増税法案は民主党が分裂しても成立するだろう。
そもそも消費税の増税は反対している人たちでさえも「将来には必要」としていることであり、それほど大騒ぎすることではないような気がする。

むしろその影で成立した原子力規制法のなし崩し骨抜きのほうを恐ろしく感じている。
「附則」のなかで原子炉の廃炉の目安40年は変更可能であること。またそれ以前に40年が経過した炉でも最大20年まて運転可能という文言が差し込まれた。
さらに「安全保障に資する」とまで。これはつまりプルトニウムの抽出による核兵器の開発を意味する。非核三原則などとうの昔に消えたかのような勢いと態度で全政党を横断して存在するであろう「好戦派」あるいは「軍事力信奉派」たちがここで一気に道をつけようとしているのではないか、と。

原発事故に関するデータ隠し。マスコミも一緒になった電力を人質にとった国民への恫喝。他人の監視を煽る政治家、などをみていると、時代は一気に軍事大国へと突っ走る可能性がでてきた。

いやすでに現有の自衛隊の保持する実力は十分「大国」であるらしいのだが、究極の悲願である核武装をはっきりと目指しての「軍事大国化」である。

そして「安全保障に資する」という文言を見たときに、今読んでいる大江健三郎さんの「『雨の木』を聴く女たち」にでてくる「核の檻」という言葉が突然、理解された気がしたのだった。

「核の檻」と発言されたのはハワイで農場を営む日系一世の男性である。広島長崎への原爆投下を経験した立場からの「反核」を日本人が語ると、それに対して日系の人からはアメリカの核武装に反対するという立場ではなく、昭和50年代においてすでに、「日本の核武装を怖れる」感覚が強くあったのではないか、と「理解」したのだ。
大江さんはそのことについて「ハワイへの核攻撃」という想像までは作品に言葉として記している。

つまりはこうなのである。冷戦時代にアメリカは日本を「核の傘」で保護したのではなく、「核の檻」に閉じこめたのだという認識。

何をしでかすか分からない故国日本への深い疑念が透けてみえる。
まして核を持たせたら、それこそ何をするか分からない。檻に閉じこめておかねば、という発想。

そしてぼくは原発をめぐる東電や国の対応、そして「安全保障に資する」という言葉を見て、その恐ろしさとはこういう事ではないですか、と思わず本に向かって問いかけたくなるのだった。

檻はもう壊れているかもしれません、と。


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