本を再読すると、最初に読んだときの「自分」に出会うときがある。そのページ、その行、その言葉にさしかかったときに感じる心の動きに何か懐かしいものを感じるのだ。確かにその時に感じたという記憶がよみがえってきて。
ところが全く何も感じないのに、確かに自分が興味をひかれた証拠が本に残っているときがある。アンダーラインだ。ぼくは鉛筆で薄くひいている。薄いけれど自分に刻み込もうとした形跡である。
大江健三郎さんの「『雨の木』を聴く女」の再読も終盤にかかって、その線が頻繁に出てくるようになった。 おもわず苦笑いしてしまったのは、語り手の「ぼく」が自分の生活態度を反省するような場面、例えば自分の怠惰さを嘆くようなところに必ず線が引いてあるのだ。これ、明らかに共感している。あらら、である。
必ずしも大筋に関係ないところである。 どうやらこの本を最初に読んだ頃のぼくはなんとか生活を立てなおさねばという意識が何より先走っていたようだ。
むろん。今と変わらぬ反応箇所もある。「decencyを守る」というところだ。 そのことが結局、事態を変えぬとしても、悲劇的な結末に向かうのだとしても
それはつまり「decencyを守るぐらいが関の山じゃないか」という本文の言葉からしかぼくは歩き出せないということなのだろう。 或いはまるでそこにずっと立ちつくすかのように。
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