2012年06月29日(金) |
詩と小説/#連歌デモ |
■■ぼくの好きな二人の作家は「現代詩」に言及しつつ、また詩を書かれながら詩を離れて小説を書いた。
一人は吉行淳之介さん。もう一人は大江健三郎さんである。 二人とも現代詩に対してどう考えるか明確な文章があって、吉行さんは「詩より詩的なもの」。大江さんは「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」のなかの「なぜ詩でなく小説を書くか」。
吉行さんは高校時代に、その表現活動を詩を創ることから始めている。そして詩作から小説に向かうのだけれど、そこには現代詩の詩句がとても「詩」とは思えない、というご自身の感覚からだった。もっと詩的なものが小説の文節の中にいくらでもある、と。そちらの方に自分は詩を感じるのだ、と。現代詩への訣別宣言だった
大江さんは自らの言語が詩に向いていない、というこを大きな理由として詩を断念された。しかし、詩に対する関心は、(それは情熱といってもよいとおもうけれども)非常に高く。ご自身の作品をブレイクやオーデンの詩句に導かれ書かれている。
大江さんはこう書いている。 「ぼくは真に詩の言葉を備えた詩人には無関心ではいられないのだ」
ぼくは二人とも、表現の基本は詩にあるように思えてならない。 吉行さんの色彩の表現、或いは大江さんの独特の文体(ぼくは歌うように読むのだ!)に触れるにつけそう思う。
それはふたりが「真に詩の言葉」を求め続けている(いた)ように感じるからだ。
小説とは近代欧米で完成した文芸表現の形式である。それはたんに物語としてあるばかりではなく、意識的な言語による構築物である。 その構築を司る意識の根に燃え上がるような「詩的なもの」が横たわっていると想像すると、なかなかにスリリングで「力」に満ちているように感じるのだった。生きることを領導しうるような。
■■詩ではないけれど短歌を毎日書いている。 在京都の詩人、河津聖恵さんがツイッター上で呼びかけ、それに応えるために。 その名を「#連歌デモ」という。
趣旨はこちらを読まれたい。 詩空間
ぼくは福島第一原子力発電の事故以降、「脱原発」を自分の意見として持っている。いまだに収束しない事故。ばらまかれた放射能の被害はいまだにその全貌は分からず現在進行形の事故だと認識している。
また放射線による健康被害、環境被害は甚大であり長い年月のスパンで現れてくること。子供にとってより感受性の高い問題であると認識している。 被害はこれか様々な形で拡大していだろうし、さらに顕在化してくるだろうと。 (日本はこのことを広島・長崎の被爆後の長い医療活動の中で知識として持っているのだが)
この事故はこの国に足を踏み入れることのできない土地と難民を初めて生み出した。このことを深刻にとらえなければならない。 ただ時間の経過に任せてもは何も解決はしない。放射能はむしろ被害を深化させてしまう。
そのなかで原子力発電に対するアンチを決意し。また被害をうけられた方に対し一人の人間としてどこまで考えられるか、語れるか、この企画にぶつけてみようと思ったのだ。
今、「鎮魂」の歌を書きたい。
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