きまぐれがき
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2003年05月10日(土) 毛糸のベビー靴下



Dから『うちに遊びに来ない?』と誘われて、初めてDの住む
マンションを訪ねたのは何時だっただろうか。
離婚してパリから日本に戻って来たDは、「なんとかやって
いけそう」な仕事が見つかったと、べつに嬉しそうな様子でも
なく言っていた頃だった。

独身の頃には、華やかな業界に身をおいていたこともあった
けれど、「今は自分一人が食べていければそれでいいから」と、
ある大使館に職をみつけたのだった。

駅からちょっと遠いいし、方向音痴のあなたが家に辿り着く
はずがないと思ったからと、改札口まで迎えに来てくれていた。

奥沢の静かな住宅街を歩いていると、どこからともなく甘い香り
が漂ってきた。
「くちなしね」「くちなしの花は八重よりも一重が好き」などと
言いながら、子供のように二人で鼻をクンクンさせた。

幾つかの角を曲がると、「もうすぐよ」と言ってDは小脇に
抱えていた小さなバッグから、白い毛糸で編んだベビー靴下を
取り出した。手のひらよりも小さい靴下だった。
茶巾絞りのように足首を結ぶ紐の先端には、同じ毛糸で作った
ボンボンがついている。
きっとDが不器用な手先で、生まれた娘にと編んだ靴下なのだろう。

あれ?と思うまもなくDはサッとベビー靴下の蝶々結びの紐を
ほどき、中から部屋の鍵を取り出した。

私は、胸が絞めつけられるような思いでいっぱいになりながら、
Dが右手で形を整えるように、そっと撫ぜているその靴下を
じっと見た。
離婚するにあたって、まだよちよち歩きの一人娘は前夫の元に
残してきたのだ。
二人が決断を下すまでにどのような事情があったのかは、
知る由もないが、このことはDにとってかなりの痛手になって
いるはずだと察していた。

「私のアイディアではないの。なにかの本で見た気がする。
あぁこういう使い方もあるんだなって」

そう言ったDが、再びパリを訪ねることなく娘にも逢うことなく
亡くなったのは、翌年の同じ季節のことだった。



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