無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月18日(木) 幻想の絆/DVD『盲獣VS一寸法師』

 休み明けで、久々の出勤。
 雑用が溜まってはいるが、まだまだ慌てることはない。ちびちびと片付けて行く。
 休みボケがありはしないかと、自分でも心配していたがそれほどでもない。それより、長いこと一緒にいたので、しげがまた私が出勤するとなると「さびしんぼう」に成り果てている。
 これが一番困るので止めてほしいのだが、そうするとしげはクスリをまた多飲してしまうのである。まあ、確かにそうやって昼間眠ってれば寂しくもなかろうが、するとまた家事をしなくなるのだ。しげがマトモに日常生活を営める手段はないものだろうか。

 URLを変えたせいで、長いことホームページのコンテンツが「NOT FOUND」状態だったのだが、しげが懸命に頑張ってくれて、一部が復旧。
 と言っても、マークが元に戻ったのと、「こんなにひどいよ名探偵コナン」の第一回が読めるようになっただけですが。
 けれど私が何度操作しても全然復旧できなかったので、しげの奮闘には(私が寝ている間中、ずっとやってたらしい)もう頭が下がって地べたにこすりつけて穴掘って入りたいくらいである。
 まあ、それまでに書いた分だけでも膨大な量があるので、完全復帰までには相当時間がかかりそうだけれど、みなさんしげを応援してやってくださいませ。
 え? お前は何もしないのかって? だから私が何をやっても言うこと聞いてくれないのですよ、このパソくんは。きっとこいつの前世はスケベな爺さんに違いない。
 それにしても四苦八苦しながらもパソコンを復旧させるようなことはできるのに、どうしてしげは「炊事洗濯まるでダメ」なんだろう。よっぽどこっちの方が単純作業のように思えるのだが。


 先日、旅行に行ったときの父との会話。
 例のゴミだらけのキャンプ場を見ての父の慨嘆であるが、私のココロの声付きで再現する。
 「日本人のマナーはどんどん悪くなりような」
 「そうだね(昔から悪いよ)」
 「事件がいろいろ起きるのもしょんなか(=仕方がない)な」
 「そうだね(論理が短絡的だよ)」
 「親子の愛情もどんどんなくなりよる」
 「そうだね(うちの場合もないけどな)」
 「パチンコして子供を車の中に放り出しといて熱中症で死なせる親とか、言語道断やな」
 「そうだね(オレも子供のころ、あんたの暴力で死にかけたこと何度もあるけど)」
 全く実にいい親子関係を築けているものだと自分でも感心する。
 子供のころ、酔っ払った親父に殴る蹴るの暴力を振るわれてお袋が止めに入ったとか、しょっちゅうだったんだが、見事に忘れてやがるんだよな、この親父は。鉄製の盆で後頭部を殴られたこともあったぞ。今だったら児童虐待で逮捕されたっておかしかないと思うが、当時はこのくらいの暴力は「しつけ」の範囲内だったのである。しかし、この躾が本当に躾として機能していたかどうかは、前述の会話で明らかであろう。「仮面親子」だとつくづく思う。
 
 「しつけ」の名目で妻の連れ子の小学4年生女子を殴る蹴るの暴力を振るった挙句、庭に掘った穴に埋め、全治2週間の怪我を負わせた埼玉県春日部市の会社員、三山英志容疑者が傷害容疑で逮捕された。女子の顔の痣に気付いた小学校の先生が児童相談所に連絡して虐待が確認されたという。
 「首まで埋める」というのはまんま「犬神」であって、そういう土俗的な知識でもあったのか、この父親、と一瞬、思った。けれど、『戦場のメリークリスマス』でもデヴィッド・ボウイが土の中に埋められて殺されるシーンがあったし、旧日本軍では捕虜に対してわりとこういう刑罰は行われていたもののようである。もしかしたら、この「生き埋め」ってのは日本人の遺伝子の中にスタンダードな虐待手段として脈々と受け継がれているものなのかもしれない。地中に埋められているだけでも長時間に渡れば呼吸困難と脱水症状で死に至るのは当然で、このオヤジに殺意があった可能性は高い。
 同時にこれも説教節などで延々と語られ続けてきた「継子苛め」の物語の系譜の果てにある事件なのである。

 「親子の絆が失われた」と嘆く向きは多いが、さて、翻って日本の歴史を見直してみたときに、「子供」はそんなに大人たちから大切にされてきていただろうかという疑問も生じてくる。明治期に来日した外国人の多くが、日本国中津々浦々で「子供や赤ん坊が大切にされている姿」を見て、驚いている。「日本は子供の天国か」と。しかし、外国人たちが見たのは主に「赤ん坊をねんねこで背中におんぶした」母親や姉やたちの姿であり、そのような習慣のない西洋人の目にはこれが「過保護」のように映ったのだ。この事実のみを以って即、「子供が大切にされていた」と断じるわけにはいくまい。
 ハッキリ言えば、日本の家庭で大切にされていたのはほんの何十年か前まで「跡取り息子」だけだったのである。それ以外の次男、三男はただの「冷や飯食い」でしかなかったし、娘は「嫁」に出すものでしかなかった(嫁に行った先で「母」になってようやく地位が得られるのである)。
 こういう言葉がまだ「生きていた」時代に私たちの世代はギリギリ引っかかっている。分かりやすく言えば、長子以外の子供はみな、長子に何か事故があったときの交代要員でしかなく、長子が存在している限り、「虐待されるのが当然」な存在であったのだ。江戸期の武士階級においてこの「制度」は絶対的なものであったが、町人・百姓の間でも、あるいは時代が下った庶民の間でも、この「感覚」だけはかなり長期に渡って継承されていた。うちのオヤジは職人の家に生まれた次男であるが、次男であるがゆえに祖父の跡を継げなかった恨みをかなり長いこと愚痴ってばかりいた。
 「惣領の甚六」という諺があるが、これは、惣領(=跡取り息子の長男)はチヤホヤされるので馬鹿が多いという意味である。この感覚が庶民のものであった証拠はあの『サザエさん』にも表れており、磯野家の隣に住む小説家・伊佐坂先生の長男の名前はまさにこの「甚六」である(この長男はアニメ版ではいつの間にか姿を消してしまった。名前が差別語であると判断されたためだろう)。
 日本人の家庭の場合、悲惨なのは、長男以外の子供をより迫害しているという自覚が親にはあまりないという点である。「冷や飯食い」であるから、親の財産が必ずしも贈与されるとは限らない。兄弟が三人いたとして、三人に財産を平等に分けて行けば、次の代、次の代と、財産はどんどん目減りしてしまう(財産が「田んぼ」であった時代には、これを指して「田分け者」と言っていたわけだ)。
 だから、親は次男以外の子供には自然、独立するための道を勧めることになる。次男以外の子供に辛く当たるのは当然だ、という理屈がここに生まれる。ましてや、長男がいて、もう一人の子供が「継子」であれば、これはいずれ追い出すのが当たり前という感覚であったろう。親にはこれが虐待であるというような意識はない。「辛く当たるのが子供のため」と思い込んでいるのである。
 「継子苛め」の物語がシンデレラよろしく、逆転して幸福な結末を迎えることが多いのは、現実には悲惨な目にあった継子たちがいかに多いかを示している。

 この事件をたいていの識者は「残酷な虐待事件」と評するだろう。
 しかし私には、この「生き埋め」という虐待の仕方の「古臭さ」を考えると、何となくこれが「未だに残る前近代の事件」であるような気がしてならないのである。
 この三山容疑者に、この連れ子の女子以外の「実の子」がいたかどうかは分からない。しかし「継子苛め」であることは確かだ。義理の娘を土に埋めた動機は「女子が学校生活上の約束を守らなかったこと」だそうである。「義理の娘だからと言って、甘やかすわけにはいかない」という道義心も働いていたかもしれない。
 ともあれ、この事件は「2週間程度の怪我」に過ぎず、「女子が死んでいない」以上は、これが三十年ほど前であれば、「事件にすらならなかった」可能性も高いのだ。

 私は別にこの親父の行為が正しかったと言いたいわけではない。細かい事情が分からない以上は、この逮捕が適切であったのかそうではなかったのかは判断しかねる。
 私が言いたいのは、「躾」という概念自体が既に前近代の、言わば旧式の価値観に過ぎなくなっているということである。現代の親は、子供に相対する場合の価値観を一度喪失してしまっており、「子供の個性の尊重」という美名の元に「放任」以外の対応ができなくなってしまっている。子供は子供で、「放任」にすっかり慣れてしまっているために、そこに改めて旧式の観念である「躾」を持ち込んでも、いたずらに反発するだけになっているのだ。
 私は、「躾」が、たとえ親の暴力を伴わなかったとしても、ただひたすら説諭のみを以って対応したとしても、それが親と子の人間関係を結ぶものとしては簡単には機能はしない、という事実を指摘しておきたいのである。
 近代と現代が、旧式の価値観と新式の価値観がある瞬間を以って鮮明に切り替わるものでない以上、このような事件が途絶えることはないだろう。
 
 こういった事件を「悲惨な事件」の一言で片付けてしまうことは、我々を取り巻く「現在」を構成する要素の全てが「過去」によって成り立っているという事実を忘れてしまうことになりかねない。現実には過去と現在とは常に絡み合い、脈動しながら未来に向かってゆっくりと進んで行く。状況が激変する中にも不変な分子は必ずあるし、逆に自分が今「常識」で不変のものだと思っている「行為」が、次の瞬間には「暴力」と認定され否定される事態だっていくらでもありうる。
 さて、そこで我々は過去の価値観に固執して現在に挑戦を試みるか、現在に迎合して過去を捨て去るか、常にどちらかを選択せざるを得ないわけであるが、将来において果たしてどちらが正しいと判断されるのか、それはまさしくケース・バイ・ケースで、我々の浅薄な予測など的中率はゼロに等しく、蟷螂の斧のごとく裏切られる結果となる場合がほとんどだ。結局、未来予測などは「賭け」のようなものである。
 子供を虐待死させるのは論外としても、親は子に一切手を上げることができないのか。「親にだってぶたれたことないのに」は二十年前だったら言った当人の「甘ったれ」な台詞でしかなかったが、今や「正当な主張」となりつつある。子供がどんな生意気な口を利いても、「子供の個性だから」と暖かく見守ることだけが親にできる「躾」なのか。親が子供を殴って、「はずみで」歯が折れたりしても、それは軽く「全治2週間」程度にはなる。そこで子供が訴えたら、親はやはり懲罰を受けることになるのか。
 それでも親が子に何かを躾けようと思ったら、自らが破滅する可能性も視野に入れた上で「賭け」るしかあるまい。
 しかし私には、カルト宗教の事件なども、親がそうした「賭け」に敗れて子供が野放しになってしまった結果であるように思えてならないのである。


 高野連が、昨17日、喫煙及び部内暴力で甲子園大会への出場を辞退した明徳義塾(高知)を初め、秋季県大会への参加を差し止めた四校を発表。明徳義塾以外の三校は、熊本学園大付(熊本=複数部員の部内のいじめ)・松本第一(長野=複数部員の喫煙、飲酒)・鶴ケ島(埼玉=複数部員の万引き、飲酒)。
 全国でたった三校かよ! ウソつけ! というのが偽らざる心境であるが、なんだかこうなると本当に「正直者はバカを見る」の世界だよなあと、高校野球界の腐敗ぶりにもはや嘆息する気すら起こらない。処罰された学校はまさしくスケープ・ゴートであって、一応、これで健全化は図ってますよというポーズだけは取った形になる。
 けれども、自分ところの不祥事をほっかむりして、いけしゃうしゃあと健全なる球児でございという顔をしているやつらは処分された学校の何十倍、何百倍あるか分かりゃしないのだ。もしも高野連が「本気で」不祥事撲滅の大鉈を振るったなら、全国大会はおろか、地方大会大会すら満足に開けなくなるのはまず間違いがないのである。
 明徳義塾がかわいそうだ、俺らだけ大会に出られるなんて申し訳ない、正直にタバコ吸ってたこと告白して辞退しよう、なんて学校はついぞ出てこない。みんな、内心では「オレたちはバレなくてよかったよな」とか「あいつら正直に上に報告したりしてバカじゃないか?」と思っているのだ。そんなことはないなどという反論は根拠を持たない。実際に明徳義塾が、匿名投書がなければ堂々と不祥事を隠したまま出場しようとしていたではないか。
 高校生にアンケートを取れば、四割強が「喫煙の経験がある」と答える。たとえ匿名アンケートでも真実は答えたくない、と思うやつもいるだろうから、実際には高校生の喫煙経験者は五割を越えるだろう。で、野球部員が全員「吸ってない半分の方」にいるなどという判断するやつがいたらそいつは相当にオメデタイやつだ。この場合、「どの学校でも野球部員の半分は喫煙経験がある」と判断する方が妥当である。で、そいつらはみんな「黙ってればわかんねえよ」と陰で笑っているような根性曲がりなのである。高校球児の殆どはそんな腐れたやつらばかりだ(まあ、高校生の大半が腐れていると言うべきではあるが)。
 マトモな神経があれば、もう長いことその腐敗が指摘され続けている高校野球になんか興味が持てるわけがない。青春の汗と涙も、根性と努力と友情も、みんな嘘っぱちだ。なのに未だに興味津々なオトナは、やはりどこかイカレていると判断するしかないのではないか。野球トバクに関わってるか、単に地元の高校が勝つことだけにしか興味がないか、でなければ高校時代に運良く野球部員の知り合いがいなくて未だに幻想を信じていられる幸せなドリーマーだけだろう。
 

 注文していたDVD『盲獣VS一寸法師』が届く。
 注文したときには石井輝男監督が亡くなられるとは少しも考えていなかったので、手に取ってみるのもそぞろ寂しい。パッケージはチラシと同じ竹中英太郎画伯の『盲獣』と『一寸法師』の挿画だ。竹中画伯の絵こそが乱歩の幻魔怪奇の世界を的確に描出し得たことを、石井監督はちゃんとご存知であった。旧仮名遣いで書かれた惹句も素敵である。

 「お気味がわるいでせうか
  何も見えない盲の目で、
  あなたをずっと
  見つめておりました。
  光とどかぬ
  アトリエには、
  三つの顔と、
  四本の手、
  三本足の裸美人、
  さあ、
  闇と握手を
  いたしませう。」

 ああ、詩だなあ。こういう文章が書けてこそ、「作家」だと威張って言えるんだと思う。
 今でも劇場で『盲獣VS一寸法師』を見たときのことを思い出すが、見終わったあと、若いカップルが「思ったほどヘンじゃなかった」とか拍子抜けしたような発言をしていた。彼らは『恐怖奇形人間』の「オカアサン!」(乱歩よりもこれは夢野久作だが)くらい意表を突いた展開を期待していたのだろう。しかし、石井監督が目指していたのは、あくまで「乱歩世界の映像化」である。トンデモ映画を作ることではない(『奇形人間』だとてトンデモ映画ではない)。
 DVDのメイキングを見ると、このころの石井監督はすこぶる元気で、八十に垂んとして全くボケを感じさせない。以前も書いたことだが、物語の破綻は乱歩の原作にそもそも存在するもので、それをあえて破綻のまま、いや、破綻を拡大する形で2作を合体増幅する形で混迷の世界を描いたのは、石井監督が確信的に行ったことなのである。
 超低予算ゆえにセットすら作れず、そこに造形の原口智生氏が手弁当で助っ人として参加し、ようやく撮影できたシーンもある。小林紋三役のリリー・フランキーさんは役者でもないのに石井監督に請われて主演した。ほかの監督だったら、リリーさんはきっと断っていただろう。集結するキャスト、スタッフの名前を見ているだけでも、監督がどれだけ愛されていたかがよく分かる。
 この映画の批評で、「昭和初期の設定のはずなのに、あちこちに現代のものが映りこんでいる」と批判していた人がいた。確かに低予算ゆえに「ありもの」で勝負するしかなかった弊害と言えばその通りなのであるが、そんなことは大した問題ではない。乱歩の小説は時代を映す鏡であったが、同時に普遍的な人間の心の闇を描いていた。時代がいつとも知れぬ混乱と違和感は、かえって乱歩らしいほどだ。
 「盲獣と一寸法師が戦っていないじゃないか」という批判も全くの見当違いである。これは物理的な戦いではなく、狂気と狂気の精神的な戦いなのだから。
 この映画に関しては、本質を見ずに瑣末的な印象批評だけが横行し過ぎていたように思う。
 2001年には完成していた本作が劇場公開されたのはようやく昨年。その間、3年の月日が経っている。日本人が、乱歩の描いた「人間の本質としての変態性」を本当に受け入れられるだけの「健全さ」を持ち合わせていたなら、劇場公開も速やかに行われたであろうし、あと一本くらいは石井監督が映画を撮ることも可能だったように思えてならないのである。
 奇しくも石井監督の「異常性愛」シリーズが続けてDVD化されることになった。劇場公開時、私は小学校低学年で、当然リアルタイムでは見られなかった。若い人には刺激が強すぎるだろうからあまり勧められはしないが、少なくとも「こういう世界」が自分よりも遠いところにあるとは思わない方がいい。嗜虐は全ての人間の原初的な嗜好として、必ず意識の底に偏在しているものだからである。

2004年08月18日(水) 見てない映画は☆の数。
2003年08月18日(月) ギャグをやるなら命がけ/『魔法先生ネギま!』2巻(赤松健)
2002年08月18日(日) 草臥れ休日/アニメ『サイボーグ009』地下帝国“ヨミ”編/『エキストラ・ジョーカー KER』(清涼院流水・蓮見桃衣)ほか
2001年08月18日(土) オトナの玩具はコドモ/『悪魔の手毬唄』(横溝正史・つのだじろう)ほか
2000年08月18日(金) 気が滅入る話/『明日があるさ』(林原めぐみ)ほか



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