無責任賛歌
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2005年08月25日(木) |
トラノアナ潜入記/舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』 |
朝からしげは風邪気味、私も下痢気味で二人揃ってダウンである。 しげは「子ども文化コミュニティー」の裏方アルバイトをする予定だったのだが、急遽断りの電話を入れて休んだ。 そのまま休んでいたかったのだが、舞台のチケットを買っているのでそうもいかない。 鴉丸嬢を迎えに行って、天神に向かう。
もともと今日の芝居は細川嬢を誘っていたのだが、都合が悪くなったので、チケットを鴉丸嬢に譲ったのだ。最初は鴉丸嬢、「お金が払えないから、ほかの人に譲っていいよ」と断ったらしい。そうしたら細川嬢、「お金要らないから黙って受け取れ!」と怒ったのだそうな。 鴉丸嬢は「怒られちゃったあ」と笑っていたが、これは細川嬢の「いいお芝居はちゃんと見て、自分のマンガの参考にしなさい」という気持ちの表れだろう。こういう衷心は遠慮せずにちゃんと受け止めるもんだよ、鴉丸さん(受け止めてないわけではないだろうが)。
芝居が始まるまで、少し時間があったので、鴉丸嬢が「まだ行ったことがない」という「とらのあな」を覗くことにする。知らない人はいないと思うが、ここは闇のプロレスラーの養成所である。うそ。 鴉丸嬢のような、アチラ方面に濃い方が「とらのあな」に足を踏み入れたことがないというのはちょっとフシギではあったのだが、つい最近まで、天神に出店があることを知らなかったのだそうな。ネット販売ではもう完売してしまっている同人誌を探したいというので、こちらも付きあうことにする。 実は私も何度かしげに「入ってみないか?」と誘っていたのだが、何しろ表が実にいかがわしいから、怖くて入ろうとしなかったのである。 「だって外から中が見えないんだもん」 「あれは、中にいる人を安心させるために見えなくしてるの!」 鴉丸嬢にそう説得されて、ようやくしげも禁断の地に足を踏み入れることになったのであった。 まあ、入ってみれば普通のエロな同人誌ショップである(笑)。 BLコーナーにいかにもな腐女子がタムロしているほかは、中にいるのは見るからに電車男ファッションなオタクの群れである。ところが鴉丸嬢はエロなら何でもオールマイティーだから、密集している電車男たちの間にもスイスイ平気で入っていくのである。 そうなると、電車男たちにとっては、自分の妄想の世界に浸っている最中に、いきなりナマのエルメスが出現したようなもので、ヒビッて引くこと引くこと。うーん、やっぱり修行の足りないやつらが多いんだなあ。鴉丸嬢、目的のブツを発見したようで、欣喜雀躍。早速、会員カードも作っていた。 しげが「あんたもこういうの買うの?」と聞いてきたので、「お前と会う前は結構買ってたよ。あさりよしとおさんのとか、毛羽毛現さんのとか、プロの人のだけだけど」と答える。しげはなんだかフクザツな表情をしているが、つまりは私がここにいる電車男君たちと同類であることに対して、違和感を感じているのであろう。ったって、私は紛うことなきオタクですがな。 探し回ってみると、今は亡き(死んでないけど)安永航一郎さんの「沖縄体液軍人会」の同人誌が2冊あったので、両方とも購入する。さすが地元だ、揃いがイイわ。 安永さんは出版社とトラブル起こしまくって、『超感覚ANALマン』も『火星人刑事』も続きが出ない状況になっているので、新作はもう同人誌でしか読めない。度胸のある出版者が安永さんを引き取ってくれると嬉しいんだけどなあ。太田出版あたりがドンと一発やってくれないもんかね。 安永本が入手できたおかげで、しげはウキウキである。ついさっきまで「入りきらん(=入れない)」と言っていたのが、「また今度来よう」に変わってしまった。また鴉丸嬢と予定が合えば出向くことになるだろう。
福岡市民会館で、劇団うりんこによる舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』。 原作はロバート・ウェストールの児童文学、脚本・演出は鐘下辰男氏。 いやもう、何というか感無量、押し付けがましく説教臭い「反戦」作品ばかり作っている映画人、演劇人は、鐘下さんの爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなるくらいの傑作だった。
主人公のトムには、子供のころ、「フィギス」という名の想像上の友達を作って遊んでいた。彼が三歳のときに、弟・アンディーが生まれる。ところがトムは、弟のことを「フィギス」と呼び、自分の前では常に「フィギス」として振る舞うように強要する。 アンディーは優しい子で、兄のトムの言うことは何でも聞いた。しかしそのうち、トムはアンディーに奇妙な能力が備わっていることに気付く。精神感応。彼には人の心を読み取り、遠く離れた外国の人々と交信することさえできたのだ。見たこともない呪術師の名前を言い当てる。飢えた難民の子どもの写真を見て「助けてやって」と叫ぶ。建築家の父も、市会議員の母親も、そんなアンディーを少しばかり持て余し気味であったが、トムはアンディーがだんだんと「深み」にはまっていくのを面白がって見ていた。 しかし、そうしているうちにトムが15歳、アンディーが12歳になったとき、弟は「あちら側」に行ったきりになってしまった。彼はアラビア語しか話さなくなった。自分の名は「ラティーフ」だと言った。そして、彼は戦場の塹壕の中にいた。現実世界でも、海の向こうで戦争は始まっていた……。
圧倒されたのはまず舞台装置である。 演劇の成否は、まず舞台美術が単なる置物ではなく「演劇」を志向しているかどうかに懸かっていると言ってもいいが、これは最上の舞台と言ってもいい。 建築中のビルの鉄骨、これが中央を取り巻く壁のように組み立てられ、移動し、あるときはこれが家に、あるときは病院に、あるときは戦場に見立てられる。 工事の騒音は戦場の爆音にシンクロし、ラグビーの試合は戦場の戦いに見立てられる。しかしそれはただの見立てではない。科学が兵器を作りだし、闘争心が諍いを生んだ事実を象徴する演劇的寓意である。 演出の鐘下さんの主張はこうである。「知識としての戦争を理解するためのドラマではなく、経験として戦争を実感していくドラマ」、それを作り出すこと。そのためには、舞台上に二つの「機能」を持ったものを配置することが必要だった。 一つはもちろん、アンディーでありフィギスでありラティーフである「弟」である。 トムのいる世界は平和なこの国である。戦争の陰はどこにも見えない。テレビからは始終戦争の映像が流れてくるが(実際に舞台には無数のテレビが置かれている)、スイッチを消せば、戦争は目の前から消えてなくなる。戦争はいつだって他人事で、対岸の火事で、よその国で誰が何人死のうと関係なんかない。そうほざいて仮に誰かの叱責を買ったとしても、少しも痛痒を感じはしない。我々は、もう長いこと、戦争を自覚せずにすむ世界に住んでいるのだ。 「戦争をなくしてくれよ!」と糾弾された母は、文字通りテレビのスイッチを切るという行動に出る。そしてこうも言うのだ。「私たちに何ができるって言うの?」。 まさしくその通りだ。誰にも戦争を止めることなどできない。政治家にも、学者にも、軍人にも、もちろん庶民にも。我々が戦争を知らずに来られたのは、そして、海の向こうの人たちが戦争に巻き込まれてしまったのは、ただ生まれた国が違っていたという「運」の問題でしかないのだ。 怖いのはこれからだ。目の前の弟が、現実に戦争を体験していても、誰も彼を救うことはできない。彼は、精神感応という能力を持ってしまったばかりに(そしてそれをおもちゃにした兄のせいで)、現実の戦争を体験することになってしまった。けれども、もしその能力が「兄である自分の方に発動していたら」? もっと端的に言えば、アンディーの存在は、もし、自分が「あの国に生まれていたら?」という問いかけを観客一人一人に問いかけているのである。知恵も、勇気も、努力も、何の役にも立たない。人間の営為が全て否定される世界に生まれるも生まれないも、それは全て「運」なのである。こんな「不公平」があるだろうか? そしてもう一つの戦争を実感するための「機能」、それが檻のような鉄骨の装置である。 平和な世界では戦争はファンタジーでしかない。しかしそのファンタジーが容易に現実の戦争に反転し、シンクロすることを、この装置は見事に表現している。ここでも「運」の問題が浮上してくる。工事現場のドリルを握る手が、運が悪ければ戦場で銃を持つ腕に変わっていたかもしれないのだ。ラグビーボールを握る手が、手榴弾を握る手になっていたかもしれないのだ。しかし、もしもそうなっていたとしても、私たちにはその運命を帰る力などないのだ。こんな「不公平」があるだろうか?
そして、この戦争の悲惨を回避する唯一の手段を、この物語は極めて冷静に示してくれる。キレイゴトだけの反戦映画『ハウル何たら』のように、電話一本で終わるようなアホな解決方法ではない。極めて実効性の高い、現実的な解答である。 それは狂うことである。 それ以外に方法があるか? それ以外に戦場にいても戦わず、敵を殺さずにいる方法があるか? 自らが死ぬのでなければ、戦争の残虐、戦争の悲惨から脱出する方法はないのだ。運命に逆らう方法はそれしかないのだ。世界が既に狂っているのだから、我々個人は更に狂うことでしか、正常にはなれないのだ。 「あれから何が変わったか。弟は変わらない。弟はずっとあのままだ。変わったのは僕たちだ。父はラグビーを止めた。母は仕事を辞めた。そして僕は……」。 しかし、現実の我々は、今のこの「ファンタジーとしての平和」にいつまでもしがみついているだろう。スポーツという擬似戦争に狂喜し、政治という擬似社会を構築する方法論に期待し、実はそれが「ファンタジーとしての戦争」を夢見る行為であることに気付きもせずに日々を過ごすことだろう。 だから政治とスポーツを嬉々として語るような既知外連中は鬱陶しいんである。
芝居を見終わったあと、鐘下辰男さんとの懇談会などもあったのだが、そこまで鴉丸嬢を付き合わせるのは申し訳なかったので、そそくさと会場を後にする。 鴉丸嬢、「事前に何も筋とか知らなかったから、面白かった」との感想。 確かに、映画にしろ演劇にしろ、先入観がない方が虚心坦懐に作品を見ることができるし、楽しいに違いないのだが、これだけたくさんのモノが溢れている状況では、完全に情報をシャットアウトもできない。ちょっとした粗筋とか、そういうものを参考にして、「この映画を見よう」とか選択の基準にするしか仕方がないのである。まあ、事前情報を仕入れていても、それに振り回されない冷静さを培うことが大切だろうなと思うのである。 事前情報がなさ過ぎるのも良し悪しだというのは、時には大きな勘違いをしてしまうこともあるからだ。 鴉丸嬢、「途中まで、外国の話じゃなくて日本の話だと思ってた」と言ってたが、貰ったパンフの表紙くらいは見ておこうよ。作者、外国人だぞ。それに、冒頭からトムとかアンディーとか、名前が出てたんだがなあ。それとも鴉丸嬢のご近所には「トム山田」とか「アンディー吉田」とか、そんな人の方が多いのだろうか。
箱崎の「ゆめタウン」の中華な店で、三人で食事。 どうやって作ってるんだかよく分からないが、「黒いチャーハン」があったので注文してみる。見た目は本当に黒かったが、味は普通のチャーハン。別に外れではなかったからいいんだけれども、ものすごい味を想像していたので、美味いのに拍子抜けであった。
食事をしながら、例の天神にできた「メイドカフェ」の話を鴉丸さんにしてみる。「バイト募集してるみたいだけど、やってみたい?」(もちろん冗談で聞いてみたので、其ノ他君、怒らないでね)。 年齢制限は18歳から25歳までだよ、と言うと、「年がギリギリだから」と首を横に振った。隣からしげが「若く見えるから大丈夫」と茶々を入れる。 「高校のころは年上に見られてたんだけどね。最近は『大学生?』とか言われるよお」 「いいなあ、私なんか最近全然、歳を聞かれない。メイドは無理かな?」 確かにしげは見た目年齢不肖なところがあるが、20代に見られたいというのはいくら何でもおこがましいというものであろう。 「メイドカフェは女性が入っても『ご主人様』と言ってくれるのだろうか?」と鴉丸嬢は気にしていたが、男性専科とは謳ってなかったように思うから、大丈夫なのではなかろうか。もっとも、本当に入る気があるかどうかは疑問だけれども。
東京のグータロウ君からしげと私の携帯にメールが来ていたので見てみると、先日お送りした「こどもびいる」が届いたとの知らせだった。 「こどもびいる」の正体は、昔からある「ガラナ」とか「アップルタイザー」ってやつなのだが、コップに注ぐと黄金色で泡が立ち、ビールのように見える。 そこに着目した福岡の「下町屋」という店が、数年前にラベルを貼り替えて売り出したら、これが爆発的にヒットした。福岡では、レストランのメニューに入れているところもあるが、去年あたりからはデパートなどでギフト用に売られているものも見かけるようになっている。そこから全国区に人気が広がっていったものらしい。 『はなまるマーケット』や『やじうまプラス』でも紹介されたというので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。東京でも何軒か、売ってる店があるようなのだが、グータロウ君のうちの近所ではまだあまり見かけないようなので、話のタネにお送りしてみることにしたのである。 取り扱い店に頼んだのは日曜日だったから、ちょっと届くのが遅れた感じだが、台風の影響か何かだろうか。随分喜んでいただけたようで、みんなで飲んでいる写真まで添付している。しげのとこに送ってきた写真はお子さんがビンをラッパ飲みしてる姿で、ちょいと行儀は悪いけれども「こんなに大人ぶってるよー」ということか(笑)。これがきっかけになって、うっかりホンモノのビールに興味を持ったりたしないでほしいものだが。 「こどもびいる」を一番楽しめるのはやはり小学生のお子さんがいる家庭だろうなあと思っていたのはドンピシャだったようで、嬉しいことである。。 ネットでも注文できるようなので、ご興味のある方は、「こどもびいる」で検索してみてください。 鴉丸嬢をお宅に送り届けて、帰宅は11時。 ちょっと遅かったが、しげが「こどもびいる」の反応が聞きたいと言うので、東京のグータロウ君のうちに電話を掛ける。 口調で受けていただいた様子が分かって、こちらも嬉しい。 お子さんが「ラッパ飲み」していたのは、ちゃんとコップに注いで飲んだ後、ふざけて空ビンを口にしただけなので、躾が行き届いていないわけではないよ、とのこと。猿股失敬。あとはお子さんがたが学校で「こないだビール飲んだよ」とか誤解されるようなことを言わないように気をつけてもらえばよいかと思う。 でもってまた劇団の話、芝居の話などを少々。 今日の芝居、鴉丸嬢も面白がっていた話をすると、「マンガの参考になればいいねえ」との言葉。グータロウ君も鴉丸嬢がプロを目指しているのは知っているから、これは叱咤激励の言葉である。鴉丸さん、ホントにね、いろんな人から期待されてるんだからね、根性入れて頑張りなさいよ。 また長話になりそうな感じだったのだが、あちらの背後で何やら音がした。「ちょっとごめんね、今日はこれで」と挨拶もそこそこに電話を切ることになってしまった。どうやら緊急事態が起こった様子である。台風も東京を直撃のようだし、先日から彼の日記でも何度か書かれていたので、何が起こったのか、事態の中身は見当が付く。ヒトの不幸を喜ぶようで恐縮なのだが、先日、メールでも「『ふるやのもり』に取り憑かれてるのかい?」と書いて送っていたのである。でも「妖怪屋敷」に住むなんて滅多にできる経験ではないし。ほかにも「家鳴り」とか「吹っ消し婆あ」とか「網切り」とかいるんじゃないか(笑)。
蛇足ではあるが、「ふるやのもり」の昔話について、ご存知のない方へ、だいたいの筋を解説しよう(確か昔、テレビアニメ『日本むかしばなし』でも紹介されたことがあったと記憶している)。今回は特別に「博多弁バージョン」である(笑)。
ある嵐の夜、村外れの農家に、泥棒が忍び込んだ。そこには爺さんと婆さんが寝ていたが、寝物語にこんなことをお喋りしている。 「なあ爺さん、こげなえずか夜に泥棒の来よったら、どげんするとね」 「何ね婆さん、泥棒やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」 天井裏に潜んでいた泥棒は、泥棒よりも恐ろしい「ふるやのもり」とは何なのだろうと驚く。 そこに今度は狼がやってきて、爺さんと婆さんを食ってしまおうとする。 「なあ爺さん、こげなえずか夜に狼の来よったら、どげんするとね」 「何ね婆さん、狼やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」 土間に上がりこんでいた狼は、狼よりも恐ろしい「ふるやのもり」とはどんな化け物だと驚く。 嵐は激しくなり、稲光がピカッと光って、篠突く雨がザアッと音を立てて茅葺屋根に降り注いだ。 爺さんと婆さんは、「ああ、『ふるやのもり』が来よったばい!」と叫ぶ。 「ふるやのもり」がどこに来たのかと慌てた泥棒は、梁から狼の背中に落ちる。 「ふるやのもり」が襲ってきたのかと慌てた狼は、飛び上がって外に逃げ出す。 狼はしがみついた泥棒を振り払おうと嵐の中を必死に走るが、泥棒も振り落とされたら襲われると思って必死にしがみつく。一晩中走り回るうちに、泥棒もついに力尽きて狼から転げ落ち、狼もそのままフラフラとどこかへ行ってしまった。 次の日の朝、泥棒は仲間の泥棒たちにこう言った。 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」 次の日の朝、狼は仲間の狼たちにこう言った。 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」 そのころ爺さんと婆さんは、雨漏りですっかりびしょ濡れになった家中の畳を汗だくになって表に出していた。 「ああ、これやけん、『古家の漏り』はえずかとよ」
いくつか、結末が違うバージョンもあるようだが、基本形はこんな感じである。
2004年08月25日(水) 美人プラス1 2003年08月25日(月) 世代の違いってことじゃないと思うけど/『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(手塚治虫原作・姫川明) 2001年08月25日(土) 夢は宇宙/『なつのロケット』(あさりよしとお)ほか 2000年08月25日(金) 唐沢本の感想書けなかったけど面白いぞ/『垂里冴子のお見合いと推理』(山口雅也)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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