NORI-☆
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大いなる賭け、そして…
8月4日土曜日、 三郎が我が家に来て2度目の脱皮をした。 ザリガニにとって脱皮というのは 己の生存の可能性に対する大きな賭けらしい。 脱皮してより大きくより強い個体となることで、 生存競争における有利な条件を獲得しようという挑戦であり、 それだけに身体にかかる負担も大きい。 脱皮直後は消耗が激しくほぼ一日身動きもままならないし、 甲殻も柔らかく脆い状態にある。 それ故、新たに獲得した強い身体や力を行使する間もなく、 脱皮後の雌伏状態で外敵にやられてしまうことも多いらしい。 外敵というのは、同族も含むという過酷な世界である。 さらに言えば、脱皮という行為自体、 それまで身体の大部分を占めて機能していた外殻を 異物として脱ぎ捨てるということであり、 構成要素の体内移動などの精緻なメカニズムによるものとはいえ、 人間などからはまったく想像もつかない荒業である。 人間でいえば、たった一人で分娩を済ませるくらいの 困難で危険の大きい作業なのではないだろうか。 当然、脱皮の過程で足や触角など 身体の一部が欠けてしまうものも出るし、 さらに分離がうまくいかず、 生命を落とすものも少なくないらしい。 生後2年くらいの間に、 ザリガニはこの危険な賭けを年間10回も繰り返して、 あるものはより大きくより強く成長し、 あるものは淘汰されていくのだという。 そして……三郎は、賭けに敗れた。 前回の脱皮のときはまるで2匹のザリガニがいるかのように きれいにすっぽり外殻を脱ぎ去っていたのが、 今回は頭胸部の大きな殻が捻じ曲がったような形で離れていた。 そして、その横に横倒しのまま身動きしない三郎の姿があった。 何かがおかしい、と見た瞬間思った。 鉢を揺らすと、かすかにまだ透き通っている足が動いた、 ような気がした。 しかし、前回の雌伏状態とは何かが違う。 この異様な生気のなさは何だ? 胸騒ぎを静めて、サトシに告げた。 「三郎、脱皮に失敗して死んじゃったかもしれない」 「気を失ってるだけかもよ。それか、疲れて休んでるか…」 口では気休めを言いながらも、 母の沈んだ声に覚悟するものがあったのかもしれない。 サトシは一度も鉢を覗いて三郎の様子を確認しようとはしなかった。 「…そうかもしれないから、 明日の朝までそうっとしておいてあげよう」 父の宣言で、鉢をリビングに残して寝室に引き上げた。 しかし、一家の祈りもむなしく、翌日の昼になっても 三郎は横倒しのままの姿勢から起き上がることはなかった。 足が動いたと見えたのは、水の動きで揺れただけだったのか。 午後になり、ついに父が埋葬を決意した。 マンションの裏手の植え込みの根元に お墓を作ってあげようということになり、 一家は紙にくるんだ遺骸とシャベルを手に家を出た。 サトシは妙なはしゃぎようで、 不謹慎な言葉をいろいろ口にし、父にたしなめられた。 思えば、辛さを紛らわすためだったのかもしれない。 新しいお墓に向かって父と母が手を合わせたときも、 「なんでお祈りなんてするの?」ととぼけて、 立ち上がるとすぐ「新しいザリガニ早く飼おうね」と言った。 しかし、初めての「ペットの死」に、 心優しいサトシが無感動であるはずはなかった。 夕方、そっと母の傍らに寄ってきて 「もっと三郎と一緒にいたかったよ…」と 静かに涙を流していた。 「かわいそうだったね。脱皮がうまくできなかったんだね。 三郎も一生懸命がんばったけど、仕方なかったんだよ。 三郎がいてくれて、楽しかったね」 サトシを抱きしめて母も一緒に泣いた。 悔恨の思いは父にも母にもサトシにも、それぞれあった。 自分たちがしてやれることは何かなかったのか、 自分たちがしたことで何かいけないことがあったのか… …それを考えると、そもそも自然にあった彼を 家に連れ帰って飼おうとしたこと自体がいけなかったのか、 というところへ行き着いてしまう。 しかし、それは敢えて考えるまいと思う。 そもそも自然に逆らって生きている人間が 上っ面反省してみたところで偽善でしかない。 自然の中で育っていたら、もっと早くに 淘汰されてしまっていたかもしれない。 それを救ったとまで言うつもりはないけれど、 少なくとも、不遜な人間のはしくれとしては、 彼にとってのわれわれがどんな存在であったか ということは考えない方がいい。 われわれにとっての彼の存在の意義を 大切にしていきたいと、 今はただそう思う。 初めてのペットの死が、サトシの心にもたらしたもの。 大切に見守って、ともに多くのことを学んでいきたいと思う。 「三郎のこと考えると涙が出て眠れないの」 と夜中、真っ赤な目をして起き出してきたときの気持ちを 忘れないでいてくれたら、と思う。 三郎、2ヶ月間、ありがとう。
2001年08月07日(火)
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