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2006年09月10日(日) 【死者は沈黙す、されど死は】

「もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?」
 薄く笑う声だけが、やけにくっきりと耳に溶けた。


 はじまりは、好奇心だった。

 面倒見のいい後見人の笑顔でこちらの足場を切り崩そうとする狸爺どもの腹のうちを探るのにも、賛美の言葉ばかりを垂れ流す人間の本質を選り分けるのにも、はっきり言って辟易していた。
 どれもこれも顔のない亡霊だ。気を抜くと頭から食らわれるに決まっている。目が覚めて一歩寝台を出れば、餓鬼の棲む苦界なのだ。

 遊びのつもりだった。
 退屈凌ぎの、危険な。ちょっとやそっとでは体験できない類の。
 まるで神か仏のように若い頭領を崇め奉る輩の、信仰にも似た忠誠心を上から踏みにじってやりたい。歪んだ破壊衝動の捌け口―――だったかもしれない。
 真昼間の社長室で秘書と―――しかも相手は男ときている―――戯れるだなんて、どうかしている。
 そう、はじまりは刺激を欲していたに過ぎなかった。
 いつ誰に見つかるかもしれない。遊びとしては上等だ。相手もそのはずだ。
 それに元々この秘書とかいう輩も気に入らなかった。まるで雲か霞のような、飄々とつかめない男だ。何が冗談で何が本気なのかまったく分からない。冗談交じりにせっせと世話を焼くこいつの身軽さが、俺には気に食わなかった。

 困らせてやろうと思ってこちらから誘った。
 まさか乗ってくるとは思わなかった。本当は、ふわふわと漂いながらいつの間にか距離を詰めてくるこの男を遠ざけてやろうと思っていたのに。
 拍子抜けはしたが、こっちから声をかけた手前引くに引けなくなった。
 まあいいか、とも思った。少なくとも退屈凌ぎにはなるだろう。
 きっとすぐに飽きる。
 今までどんなものにも執着したことがなかったのだ。当たり前のように、熱情は冷えてゆくと思っていた。
 だから手軽に手を出せたというのに。


 この体たらくはなんだ。



「……なんの、つもりだ」
 口に出してから、自分の声が掠れていることに気がついた。
「なんのつもり、って?」
 一糸乱れぬ姿のままで、男はこちらを見ている。
 まだ黄昏時で、斜陽がブラインドの隙間から赤くこぼれてきている。いつも通りに場所は社長室だ。男のかけた胡散臭い眼鏡の表が、つるりと赤い光を跳ね返した。
「らしくねぇだろこんなのは」
「そう? 別に俺はいつも通りですよ」
 そんなはずはない。
 明らかにお前はおかしい。
 指をさして、そう怒鳴ってやりたかった。
「らしくないのは社長のほうなんじゃないの? 覚えたての子どもじゃあるまいし」
 ひんやりと冷たい指先が、咽喉を伝って鎖骨を辿る。
「熱でもあるのかな、あっついね」
 肌蹴た胸元を、思ったよりも大きな手のひらが撫でておりる。
 するりと抜けたネクタイをまるで犬のリードのように引いて、インテリ然とした眼鏡の奥で目を細める。
「離せ!」
「おっと」
 思わず脚が上がった。秘書はひらりと身をかわす。両手を挙げて降参の意を示した。
 壁際に追い詰められたまま、肩で息をしている自分と違って、奴はどこまでも自由だった。
「もうしっかりしてよ、俺は別にあんたのどこも、捕まえちゃいないでしょ。……それとも」
 大袈裟にあげた両手の、片方で男は、顔に張り付いた薄っぺらい眼鏡を引き抜いた。
 袋小路に追い詰められた小動物のように、背をぴったりと壁につけて固まっているこちらのほうへ、ゆっくりと歩み寄る。
 ぴしりと糊の効いたスーツの腕を伸べて、壁に片腕を突いた。身をかがめて、こちらの耳元に唇を寄せる。
「もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?」
 普段よりもぐっと低いトーンで、残酷に囁いた。

 そのときの。
 腹の底から一気に噴出した熱の、名は知らない。
 ただ無性に苛立たしいような恥ずかしいような殺してしまいたいような。
 せつないような。
 自分ではどうしようもない衝動だった。

「て、めぇ……! トチ狂ってんじゃ、ねぇよ……!」
 何故か力の入らない右腕で、乱暴に男を押しのける。
 口元に自嘲めいた笑みをひらめかせて、男は数歩あとずさった。
 おかしい。
 この男は、どこかおかしい。いつもと違う。
 逃げ方は蝶に似ている。ひらひらと指先をすり抜けて逃げる。決して捕まえることは出来ない。
 感情も平坦だ。大きな起伏を見たことがない。
 温厚にへらへらしているのは、ただの仮面だ。
 ずっと、この男に感情なんてあるのかと、思っていた。
 幾度戯れても、熱に浮かされたことなんてない。冷静にこちらを見据える。
 その、氷のような瞳が。
 今日は何故か熱を持っていた。燻る、ただれた熱。
 男は、まるであざけるかのように小さく笑った。
「俺が狂ってるって? 狂ってるのは社長のほうでしょ。最初に誘ったのはどっち?」
 顎を持ち上げて、男は見下したように笑う。
 突然、両腕で強く突き飛ばされたような気がして、驚いた。
 無慈悲に、理不尽に、突き放された気がした。
「そろそろこんな馬鹿げた遊びも、終わりにしないとダメなんじゃないの」

 俺はきっとそのとき初めて、この男の真顔という奴を見た。
 何の装飾も、何の含みも、何のごまかしもない、赤裸々な顔を。
 いつも人を小ばかにしたような笑みを含ませている瞳も、刃のような鋭さを持っていた。

「いい加減、駄々を捏ねるのはやめたら。これ以上続けてバレたら、若社長のたわむれじゃ済まなくなるんでしょ」
「……分かるように、言えよ」
 遠まわしに責められているようないたたまれなさは、嫌いだ。
 男は―――猿飛佐助は何故か、困ったように笑った。
「ダメでしょ、大事に大事に育てられたご令嬢には刺激が強すぎるって。……結婚が決まったんでしょ、おめでとう」
 頭の上から、氷水の滝に打たれたような壮絶な冷たさに、震えた。
「んなモン、ただの契約じゃねぇか」
 事実、まだ会ったこともない女だ。
 佐助は大袈裟に肩をすくめる。芝居がかった動作だった。
「ダメダメ、それがお子様の我儘なんだってば。火遊びならもうオシマイ」

(じゃあ火遊びじゃなければ)
 ゆるされるのか。

 心の表にぷくりと、自然に浮き上がってきた泡に驚いた。
 誰よりも火遊びを望んだのは、自分のはずだ。
 鬱屈を晴らすために誘った。(何故この男だったのか)
 だらだらと中途半端に続けた。(いつだってやめることは出来たはずだ)


―――もしかして、俺につかまえてほしいとか、思ってる?


 捕まえてほしいと言えば。
 叶うのだろうか。

 口元が思わず笑みの形に緩んだ。引きつれたような笑いに違いない。
 結局お前は正しい。いつだって。
 狂っているのは俺のほうか。
 初めから。

「だからって、今日は別に」
 腕を伸ばせばつかめるかもしれない。
 すがり付けば抱き返されるかもしれない。
「これで終わりじゃねぇんだろ」
 けれど、相手を見据える瞳はむしろ攻撃的な色をはらんで、言葉は裏腹に調子付く。
「しょうがない子だね」
 微苦笑のまま、佐助が間合いを詰めてくる。
 だらしなく開いた唇から、やけに熱を持った舌が伸びてこちらの唇の上を辿る。
 体は正直に相手を受け容れた。隙間を見つけて、もぐりこんだ舌先が、歯の付け根を乱暴に擦る。
 あとは、くだらない腹の探り合いなんてどこかに行ってしまった。
 結局どちらも素直ではないんだし、意地の張り合いを続けるよりも、よっぽど分かりやすい。
 乱暴に粘膜を絡め合わせる。
 没頭してしまえば何も考えられなくなるだろう。
 現実から目を逸らしてしまえばいい。
 何も見なければいいんだ。
 気づかないふりをしろ。
 この、燻る熱の名前など。
 例え知っていても。

 お互いに、どうしようもねぇな。

 腹のうちはもう見え透いているってのに、一歩踏み込む勇気なんて持っちゃいない。
 ただ、無感動なお前が乱暴な手つきになるような熱を、与えることができたんだったら。
 それは案外、重大な意味を持っているような気がする。


「ねえ、社長」
 耳の形を辿る唇から、濡れた声がこぼれてくる。
「名前呼んでみてよ」
 ぐったりとうなだれた額が、肩に触れた。
 こちらの肩に顔をうずめたまま、しばらく佐助は動かなかった。
「……佐助」
 ためらったあとで声に出すと、顔を伏せたままで佐助は咽喉で小さく笑った。
「よかった、ちゃんと知ってたのね」
 知らないのかと思ってた、なんて。白々しいことを言った。
 不本意、と顔に書いておいたら佐助が困ったように笑う。
「だってアンタ一度だって」
 いつだって。
「俺の名前、呼んだことないじゃない」
 あとは、言葉にはならなかった。

 この、燻った熱は名前を与える前に殺す。
 決してもう、お前の名は呼ばない。
 それでも。
 死者は沈黙すれど、死は。
 あまりにも雄弁だ。

 もう手の内は見えている。


<了>



一文字漢字御題百選
46:黙


如月冴子 |MAIL

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