徒然エッセイ&観劇記
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2001年09月11日(火) |
「お芝居で倫理を語る」WITH KERA |
「別にあたしはねぇ、あいつが人を殺そうが、どっかの核の爆弾?そういうの押そうが、あたしは、あいつの味方なのよ!だってそんなの、私には全然、関係無いもの。 だから言ってやったのに。何があっても、あたしはあんたの味方だって。なのに何で死ぬのよ!!そんなことされちゃ、このあたしはどうなんのよ!!」
弟が、同級生をリンチ殺害。が、良心の呵責か、獄中で自殺。 前述したセリフは、その姉が、殺害された同級生の父親に対して言ったものである(私の記憶を頼りにしているので、一言一句劇中と同じではないのであしからず)
ケラリーノ・サンドロビッチ作でこの7月青山円形劇場で演られていた「室温〜夜の音楽」という舞台。 その中で私が一番印象深かったセリフがこれだ。 「そうだよねえ」と思った。彼女の言っていることが、他人様から見れば迷惑この上ないとしても、実際私はひどく自然に共感してしまうのだ。 自分の家族、大事な人、好きな人が、何か犯罪を犯したとする。それで自分は、彼に失望を覚える?縁を切る? いや・・・「それとこれとは別」ある意味、彼の世界で起きた出来事と、私の世界にいる彼とは抵触しない・・・? 倫理がなに?道徳がなに?そんなもの関係無い全然関係無い・・・そんな「本気」な声がする。 「倫理」をあらかじめ知っていて、あえてそれに歯向ったり、無視をしているわけじゃない。ごくごく自然に、彼女はその「倫理感」を持ちあわせていないのだ。 「人を殺してはいけない」「殺した者には罰が下る」・・・「は??何それ?」てな感じだ。 実際私も、どうも実感として「倫理」を知らない傾向があるので、妙に共感してしまう。
そのように、あらかじめ倫理を知らない者に、倫理を教えるとしたら、どうすればよいのか? ふわふわと考えつつ、八月、またケラリーノ・サンドロビッチ作劇「暗い冒険」南バージョンを見に行った。 浮気相手の彼女に、「あなたの奥さん浮気をバラす」と言われ、殺し屋に頼んで彼女を殺してしまった(実際は殺し屋が殺したのではなく、彼女は既に自殺していた)主人公は最初その良心の呵責に悩むが、最後には実に晴れ晴れとこう言う。 「人は殺してもいいんです!!」
別にこれは、舞台内だけの文法で作られた世界であって、現実世界にリンクして考えさせることなどは狙いとしていない。ケラの作風から言って、そうなのだろう。何か言いたかったわけではない。 ただ、ああ堂々と「人は殺してもいいんです!!」と言われると、「そりゃあかんでしょ」と即座に突っ込む私がいた。 ・・・殺された方は、どうなるのだ? どうもこうも、どうにもならない・・・か? 死んだら死んだで、終わり、か・・・本人の預かり知るところではない。
そんなことを考えているうちに、テロだ。 ♪乗客に日本人はいませんでした いませんでした♪と歌ったのはイエローモンキーズ(BY「JAM」)いや、日本人もいました。 しかし日本人だろうと外人だろうと、心底心配したり出来ない自分がいる。 「タイヘンだねえ。ふーん。不運だったねえ」私に思えたのはそれくらいだ。 死んでゆく人々への想像力の欠如がもたらす事態だろうか? 海の向こうの、映像で見せられる実写は、映画じみているし、何度も見るうちに驚きも失せてくる。 まったく、テロリストたちへの憤怒の思いも湧いてこない・・・。 もし、あそこに自分の知っている人間が一人でもいれば、家族が死んだともなれば、心の底から悲しみ、犯人を憎んだだろう。 だが、そうではないのだ。「関係無い」世界なのだ。これから日本にもトバッチリがあれば「関係ある」ようになるのだろうが、それまでは「他人事」の範疇を出ないのだ。 自分に「関係ある」世界が狭すぎるから、このような事態が生じるのだろうか? 見知らぬ世界の出来事も、我がことのように心を痛めることが出来るのを、倫理を身に付けた成熟した人格と言うのだろうか。 私にはまだ、心底分からない。分からない自分が情けなくも思う。だが仕方がない。心底思わないことを、ムリヤリ思おうとするのは無理なのだ。
「私には関係無い」世界で人がいくら死のうとなんてことない。 「私には関係無い」人がいくら死のうとどうってことない。 「私には関係無い」人を弟が殺したって別に驚かない。
もし、私のような人間ばかりになってしまったら・・・というか、自分等の世代とその下の世代にはそういう兆候がある気がするのだが、それはよく考えて見るとかなり危険だ。 そんな世界には住みたくはない。だが、何故私(たち)は倫理を身に付けずに成長してしまったのか。 こういう原因追求の言語的説明は頭のいい人たちに任せておく。私は私の実感で、実際のところ素朴に思うところを語るだけにしたい。それは少なくとも私の中で「真」であると言えるから。
そして「関係無い」文法をさらに推し進めてゆくとこうも言える。 「私が死のうと、私には関係無い」 「私」でさえ、関係無い事項に当てはまり得るのだ。 自分の生命にさしたる関心もおけない・・・すべてを投げ出しすぎているのだろうか? 何もかも、客観的事項も主観的実感も、自分から遠すぎる。 学習塾で知り合う中学生達などを見ていても、彼らにこれと同様の無力感を感じることがある。
「どうでもいい」他人から発せられると、一番ムカつく言葉だ。そんなことを言い出したら、学問も何も、全く前に進めない。 しかし前に進んだからって何だというのだ?・・・と思う私もいる。私は彼らに、何も言えない。 私のように「進歩史観や倫理に自信が無い」親が子供を育てると、子供もそうなるだろう。そうやって、現在の子達も作られているのかもしれない。
緩やかに絶望しながら、何となく生きている人間達。 今、日本人の中で「世界が壊れてしまってもいい」と思っている人口は、存外多そうだ。 実はあのテロでわくわくしてしまった人もいるだろう。 大体テロなんて、自分でどうにか出来る問題じゃない。こっちはただ起こった出来事を見ているだけだ。どうしようもないじゃないか。 せいぜい隣の人との世間話に使える程度の話だ。 世界は私を通り過ぎてゆく。目に映る「実感の伴わない世界」と、どう折り合いをつけるか。 実感が伴えば、きっと殺人なんて言語道断だと思えるだろう。 自分の弟が殺人を苦に自殺したら、「しょうがない・・・それでよかった。そうするべきだった」と思うの、か?
「心底、そう思う」のはかなり大変なことだ。 自然と沸き起こるような倫理を、私が持てたらいい、と思う。(もう手遅れ?)
※この原稿は、大学の哲学の自由レポートとして提出したものです。
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