先日のこと。
仕事の合間に雑談になった時、ひとりの女性が私の筆記具を目に留めて、 「やはり環境に配慮して鉛筆を使っているのですね」と言われた。
「いえ違います」と即答し、たまたま家の中に転がっていたのを入れてきただけです、と付け加えると、まじめそうなその女性は、はあそうですかという風で、気の毒である。
どうして私は、嘘でもいいから「もちろんそうです」と言えないのだろう。
しかも、よせばいいのに、「ちびた芯でも騙し騙し書くことができる鉛筆は、私のようなルーズな人間にはぴったりなんです。シャープペンシルだとこうはいかないので困るんですよ」などと、環境とは無関係にそうしている理由をアドリブで付け加えたりしている。
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本当を言えば、ちびた鉛筆で仕事に臨んだことなどない。 特に出かける前は、良い成果が出るように祈りを込め、包丁を研ぐ料理人のような気持ちで削っている。
どうして私は、ちびた芯でもなどと口からでまかせを言ったのだろう。
この作為は一体何か。 数日経った今になって、もう一度考えた。
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おそらくそれは、自分が道具を楽しむ心は特別なものであって、エコロジカルな活動と無関係であることだけは明確にしておきたい−その場の雰囲気や真実を犠牲にしても−という、その気持ちと、 世の中に張り詰められすぎてパンパンになっているエコロジーの空気を緩めてしまいたかったのだ。
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