2004年08月15日(日)
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携帯が、ぶち壊しにした
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「もう起きたか」「まだ寝てるのか」「まだ仕事か」「夕飯食ったのか」「もう帰ったか」寝ちまったのか」「電話ください」「いまなにしてんの」・・・。
毎日こんなメールが届き、いい加減にしてくれないかと言っているのに止む気配がない。まぁ、数年前からこんな状態が続いているから、いまさら言うことでもないのだけれど、もうちっとなんとかならないものかと思っている。
着信拒否にしていたこともあるが、そうすると今度はメールの代わりに電話がかかってくるし、電話も拒否してしまえばいいのだけれど、さすがにそれではひどいかなと思ったりもするし。暇なときならば、「いまなにしてんの」といういつものメール、まぁ、相手するか、という気にもなるけれど。
と、こう書いている午前3時過ぎ。ちょうどまた「起きてるか」というメールが来る。あぁ、なんでそこまで縛られなければならないのかと思うし、そして「携帯」電話が憎い。とりあえず今、電源を切った。やれやれだ。
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携帯電話が広まって、もう何年になるのだろうか。いまや大多数の人が所有するこのアイテムも、しばらく前なら珍しいものだったはずだ。昔のテレビドラマとか見てみるといい。どこにも存在しなかったのだから。
待ち合わせの時間に会えなかった時の焦りとか、夜中に他人の家に電話をかけざるを得ない際の後ろめたさとかは、現在10代の若者は経験したことがないに違いない。私たちのような20代前半の世代が、テレホンカードを使ったことのある最後の人種になるのではないかと思っている。
誰もが携帯していて、個人で所有しているからこそ、「夜遅くだから遠慮しようか」とか、「人の目があるから」とか、そういう感覚は薄くなった。おかげさまで時間も節約できるし、気軽に電話できるし、電車の中でも「メールに限ってOK」とまでなった。携帯電話に接することのなかった年齢層の人々は、なぜもっと不満を漏らさないのだろうか。もはやあきらめてしまったのか。
まぁ、マナーうんぬんはどうでもいいのだ。なによりも携帯がぶち壊しにしたのは、人との間合いなんじゃないかと思う。誰とでも気軽に「つながっていられる」ぶん、一回一回のメールや電話の重みも、すっかり減ってしまったのではないか。関西に暮らしてもそれほど東京との距離を感じないのは、もちろん新幹線でいつでも帰られることもあるが、携帯による部分も大きい。
「便りの無いのは良い便り」なんてことわざ、もはや昔のことか。
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アメリカに、親友がいる。大学の剣道部で同じ時間を過ごした奴だが、今どこで何をやっているのかは知らない。春先に会ったときは、日本で働くことになるかもと言っていた。何の音沙汰も無い以上、ダメだったんだろう。
たまに何をやっているのかと思うが、なにぶん海を隔てたとこにいることだし、別段何か連絡を取る理由もない。ただ、この前の別れ際に奴が言ったのは、「剣道やってりゃまた会えるさ」という台詞だった。残念ながら今、あまり竹刀を握ることもないのだけれど、そのうちまた会えるだろうと思っている。そのときアイツは、煙草をふかしながら、「よぉ。元気だったか」と言うに違いない。そしてきっと、酒でも飲みながらお互い積もる話をするだろう。
これはまぁ特殊なケースだとしても、別に毎日毎日連絡を取る必要は無いだろうと思う。「じゃあ週末くらいは」とか、「どれくらいの頻度ならいいんだ」とか言うけれど、それはもう、どうか自分で察してくれないか、と言いたい。
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