河原で殺された君に捧ぐ。 |
この前、何処かの河原で高校生に浮浪者が殺された。 というわけで、突然だが俺なりの浮浪者観を書いてみる。 ---
正直、まともな人間ではないし、まともな人生でも無い、と俺は思う。 どんな理由があるにせよ、責任を逃れて辿り着いた場所だ。 責任を逃れ、自由に生きることを選択した。 彼らがそうすることで俺に害は無いし、百歩譲って良しとしよう。 寝る場所も無いので駅構内などで勝手気ままに寝ている。 夏場の駅構内はお蔭様で非常に臭かったりするわけだが、一時期の新宿西口のダンボールハウスは壮観ですらあったこともあり、これも、まあ、良しとしよう。
だけどさ。
その新宿西口に「動く歩道」を作るということでダンボールハウス撤去、もちろんそこにいる方々もお引取りください、っていうニュースが、俺が東京にいた頃だから、7、8年前にあったわけだが、その時、そこをネグラとする方々がやっぱり猛烈な反対行動をはじめた。
アホか。責任を放棄した人間が権利を語るな。
若かりし俺もさすがに、それはおかしいだろ、と思ったものだ。 公共の場所は、日の丸側のものであって、そこをどうしようが日の丸の勝手。 むしろ、公共の場に勝手に巣くっていた彼らは素直にどいて次のネグラを探すしかないはずなのだ。
さて、そんな彼らに救いの手を差し伸べる優しい人達がいる。 年末に食べ物を振舞うどこぞの人達である。(誰だ?) 毎年の恒例行事みたいだが、浮浪者が食べ物に困っているだろうから、可哀想だから食べ物作って配ってあげる、といった発想か。
アホか。それが彼らのためになると思うのか。
食べ物に困っているであろう現在の生活は、彼らがなるべくしてなったのだろ? それについては自業自得であって、彼らはそうなることを承知でそういう生活を送ることを決めたのだろうから、放っておけば良いのだ。食べ物を配る優しい人達は、そうやって「自分の優しさ」を自分自身で感じ良い気分に浸りたいだけなのだ。
別に存在を否定するつもりはないが、浮浪者も、それを取り巻く優しい人達も嫌いだ。
--- この、浮浪者を殺した16歳は殺人の動機について、「人間のクズだから」ということを供述しているらしい。 そのクズを撲殺した自分もクズだということにいつ気がつくか。 気づいた時彼はどうするのか。まあ、今回の話のスジから離れるので放っておく。
っていうか、どんな理由であれ、人殺したらその人間の人生は終了だよね。 もちろん家族もね。
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2004年02月01日(日)
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