2005年09月06日(火) |
いしいしんじ『「よくわからない」ままの読書』 |
東京書籍の中学校教師向けパンフレットで、作家いしいしんじさんのとても興味深い文章を読みました。
国語の試験問題に使われた文章は一応問題が作家の元に送られるそうです。 そして、いしいさんは、送られてきた問題を解いてみるのですが、ほとんどの解答を間違えたというのです。 (いしいしんじさんは京都大学文学部卒業の経歴の持ち主。)
よく、「登場人物のそのときの気持ちなんて、作者に聞かないとわかりっこないじゃん」という議論になりますが、まさに、物語の作者であるところのいしいさんが、考える解答と、出題者の考える解答が異なるというのですから興味深い。 「ほーらいわんこっちゃない。模範解答なんてあてにならないじゃないか。」という声が聞こえてきそうです。
でも、いしいさん、穏やかに語ります。 「たとえば、「この場面で主人公の感じていることを選びなさい」という問題で、複数の選択肢から答えを選ぶ、といった場合、箇条書きされている答えのどれもが、当てはまるようにみえてくる。正解欄を覗くと、ああ、なるほど、そうだったかもしれない、と曖昧にうなずいている。家人は横で、「これ、あなたが書いたのでしょう?」と呆れた面もちだが、自分は主人公ではないので、その心中が本当にわからないし、よしんば本人だったにせよ、自分の感じていることを客観的に把握するのはかなり難しいと思う。だいたいいつも、あとから状況を振り返って、「あのとき、怒っているつもりで、実は照れていたんだな」と思い当たったりするが、程度の差こそあれ、こういうことは、誰の身にも覚えがあるのではないか。」
「小説に書かれた言葉、文章が、川面の照り返しのようなものとすれば、読書経験とは、川のなかへ身を投じ、言葉の底の豊かな流れを体感することにほかならない。試験問題に出るのは、その照り返しのほんの一部でしかないわけだが、それがどのように見えるか、川岸からあれこれと眺めているうち、ふいに流れに引きずり込まれる生徒=読者もいるかもしれない。そうでなくとも、書き手が小説内の人物を把握しきれない以上に、おおよその中学生には、おそらく自分のことがよくわかっていない。選択肢のうちから答えを選ぶことは、絶えず揺れ動く自分のありようをひとつに決めることになるので、なかなか一個にしぼりきることができない。しぼりきるには覚悟がいる。「これ以外に正答はない」と云い切る大人たちの言葉が、中学生だったこと私には、きわめて浅薄に思えた。これも、あとから考えてみれば、すべてを自分中心に考える、十代のもの特有の傲慢さであるし、臆病さの裏返しでもあっただろう。とはいえ、あのころ自分の身近に、「こういう問いには、こう答えておけば、とりあえずマルがもらえる。そのほうが得だろう?」と実際的に、川下り舟の船頭のように教えながら、「よくわからないところ」をわからないままに置いておく年上の人がいたとしたら、選択問題を解くにして十代の極めて曖昧な生活を送るにしても、ずいぶん楽だったろうなと、やはり今にして思うことがある。」
国語はすべてではない。 絶対でもない。
奥深く、繊細で、面白い、言葉の世界のほんの表面。
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