2005年10月09日(日) |
村上春樹『海辺のカフカ』 |
私は読むタイミングっていうことにけっこうこだわる。 同じ作品であっても、受ける側のコンディションで受け取るものが全然違ってしまうから。 とくに、好きな作家については、その作品をいつ手にするか、すごく考える。 この作品も、「そろそろかな」という予感があって手に取りました。
この作品は、メタファーと具体的な現実というものについての考え方についてけっこう多く言及しているんだけど、これって、村上春樹のほかの作品を読む上でもとっても重要な意味があるんじゃないかな。 だから、この作品は、「村上春樹作品の読み方概論」的な役立たせ方もあるかもしれない。
〜「いずれにせよあなたは、あなたの仮説は、ずいぶん遠くの的を狙って石を投げている。そのことはわかっているわよね?」 僕はうなずく。「わかっています。でもメタファーをとおせばその距離はずっと短くなります。」 「でも私もあなたもメタファーじゃない」 「もちろん」と僕は言う。「でもメタファーをとおして、僕とあなたとの間にあるものをずいぶん省略していくことができます」 彼女は僕の顔を見あげたまま、またかすかに微笑む。「それは私がこれまでに耳にした中では一番風変わりな口説き文句だわ」 「いろんなことが少しずつ風変わりです。でも僕は真実に近づいていると思う」 「メタフォリカルな真実に向かって実際的に?それとも実際的な真実に向かってメタフォリカルに?それともそれは相互的に補完的に働きあうものなのかしら」 「いずれにせよ僕はこれ以上、今ここにある哀しい気持ちにたえられそうにないんです」と僕は言う。 「それは私も同じよ」〜
たとえば、『納屋を焼く』みたいな、どう読んでいいのかよくわからない作品、読む側は作者にポーンと突き放されたみたいな感覚になるんだけど、『海辺のカフカ』をあらかじめ読んでいると、そういう村上風な作品世界もふむふむ、と受け入れられると思う。
まあ、それはさておき、ごくごく個人的な感想としては、私はナカタさんサイドのお話がとってもとっても好きです。 世の中の善良さを結晶化したらナカタさんが出来上がるかもしれしれない。 人はナカタさんの善良さに出会い、しらずしらず彼に対してちょっと手助けをしてあげます。そして、善行をしてあげた自分がまんざら捨てたものではないことに気づきうれしくなります。 本当にすごいのは、善行をした人ではなくって、無意識の中にそうさせてしまうナカタさんなんです。
カフカ少年の章は、彼の自分探しで、いつもの青春村上節です。 だから、私は人間味あふれる率直なナカタさんの章が好き。 カーネルサンダース氏なんて、ほんとに痛快!
「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのはあくまで融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前には神様だった天皇は、占領軍軍事司令官ダグラス・マッカーサー将軍から『もう神様であるのはよしなさい』という指示を受けて、『はい、もう私はふつうの人間です』って言って、1945年以後は神様は神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのは、それくらい調整の聞くものなんだ。安物のパイプをくわえてサングラスをかけたアメリカ軍人にちょいと指示されただけであり方が変わっちまう。それくらい超ポストモダンなものなんだ。」
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