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夜道の罠。 | 2006年07月27日(木) |
しゃん、しゃん、と何処からか鈴が鳴る。 足元から立ちこめる霧がいつの間にか視界を閉ざし、香子は困ったように目を瞬かせた。 沈みかけた日と陰影を濃くしていく森の姿は何処にもない。 どうやら何処か妙な場所に迷い込んでしまったらしい。 柔らかな乳白色の空間は彼女を閉じ込めるつもりらしく、伸ばした手の先すら霞に滲んでぼやけるほどだ。 「……どうしよう……」 夕暮れ時は日常と非日常の間の壁が薄くなる。 特に君は向こう側の空気に馴染みやすいのだから気をつけるように、と幾度も言われていたことを思い出し、此処から帰れないという心配よりも彼に見つかって怒られることの方に彼女は焦った。 ふと戸惑う彼女の注意を引くように、すうと霧が晴れていく。 月のない、蒼い夜。 夜風が涼しく頬を撫で、黒く藍色の空に浮かび上がる木々の影がざぁと波打った。 「……」 香子は僅かに眉根を寄せる。 彼女は新月が嫌いだ。その夜は絶対に彼に会えない。 月そのものである彼は、新月の夜はずっと眠りこけているのだという。 香子が毎晩睡眠を必要とするように、彼にとってその日が大切なのは分かるから何も言わないが、それでもいつもいてくれるひとがいないというのは、彼女をひどく不安にさせるものだった。 その夜と同じように、月がない。 彼女は逡巡したが、此処でまごついていても事態が解決するわけではない。 闇の向こうに橙色の光を見つけ、香子はそちらへ向かって歩き出した。 そうして辿り着いたのは、昔話に出てくるような古い小さな家だった。 旅人が迷った先に行き着く一軒屋。 「……こういう話、聞き覚えがあるわ」 嫌な予感を覚えつつ、ごめんください、と声をかけると、果たして彼女の予想したとおり、腰を不覚曲げた、優しそうな老婆が扉を開けて「おやまあ」と笑いかけてきた。 「これはまた、綺麗なお嬢さんだこと」 「夜分にごめんなさい。道に迷ってしまったのですが、ふもとへ行く道はご存知ですか?」 「今からふもとへ行こうってのかい? やめておきな、夜は獣がうろついているんだ、危ないよ」 やっぱり、と彼女は頭を抱えたくなったが、精一杯の愛想笑いで緩く首を振った。 「でも、帰らないと家族が心配していますし」 「明日の朝でも怒られやしないよ。ほらおいで、今夜はうちに泊めてあげる。女の子が夜中まで外をうろついてちゃ駄目だよ」 骨と皮ばかりの腕が意外な強さで彼女の手首を掴む。 「いえ、でもご迷惑おかけするわけには」 そのままずるずると家の中に引きずり込まれそうになったとき、ふっと目の前を白い何かが遮った。 ギャァ、と耳障りな唸り声と共に腕を放され、反動で彼女はひっくり返った。 その背を抱き留め、彼はあからさまに嘆息した。 「道草を食ってはいけないと言ったろう? 全く、いつまでも帰らないから祖母君が心配している」 「……私何もしてないのに……」 「何かあったらすぐに私を呼ぶように言ったのも忘れていただろう。昼ならともかく、今は私の領域だ。誰にも何も手出しはさせぬ」 しばらく一緒にいて分かったが、彼は結構説教好きだ。 ごめんなさい、としおらしくうなだれる彼女の頭をぽんぽんと撫でるように叩くと、彼はひどく醒めた目で老婆を見下ろした。 「それで、分かっているだろうな?」 「知らなかったんですよ。御前と分かっていたら手出ししませんでしたよ、許して下さいよ」 「……本当に?」 「本当ですよ。御君が常についていらっしゃるものだとばかり思ってましたからね、護りのない娘っこが御前だとは思いもしませんでしたよ」 ねえ、御前からも何か言って下さいよ、と香子に伸ばされた老婆の腕を軽く叩き落としその身体を踏みつけながら、渡空がちらと香子を見やる。 ふたりの視線を受けて、彼女はふるふると首を振った。 仕方ない、と再度溜息をつき、彼は老婆に乗せていた足をどけた。 「……本来なら即座に滅するところだがな、彼女に免じて許してやる。今度からは相手を選べよ」 「すんませんねえ、本当ごめんよぅ御前さま」 あざになった手首を優しく撫でられ、香子は苦笑を返した。 「おばあさんも気をつけて」 「普段ならこんな間違いしないんだがねぇ、あたしも焼きが回ったかね。でも御君、ちょいと無防備すぎやしませんか」 「……それは分かっている」 不機嫌そうな顔つきで頷く青年を前に、老婆は首を傾げながら言葉を続けた。 「あたしなんかは力も強くないですしね、御君には何度も助けられていますから逆らう気もありませんが、もっと性質の悪いのに狙われたら大変ですよ」 「分かっているからとっとと去ねい、灰にされたいか」 怒気に触れて飛び上がった老婆は、へこへこと頭を下げながら藪の中へ消えていく。 「ひゃあ勘弁を。あたしが言うのもなんですが、お気をつけなすって」 「ええとありがとう、気をつけて!」 ひゅう、と涼しい風が吹き、はっと我に返った香子はおそるおそる彼を見上げた。思ったとおりの仏頂面に首を竦ませる。 「……ありがとうも何も、食われかけたのをすっかり失念しているようだがな」 「……だってそれは私がふらふらしてたのが原因の半分くらいでしょ?」 「分かっているなら気をつけることだ。まったく、護りをこしらえている最中によくもやる。怪我は?」 説教を垂れながらも、服についた葉っぱを叩き落としたりと世話を焼く彼が何だかおかしくて、彼女は小さく笑みを零した。 「大丈夫。……たすけてくれて、ありがとう」 「礼には及ばないよ、それより君は早く帰るべきだろう。とうに夕食の時間をすぎている」 ぎょっとした彼女が時計を確かめるとなるほど、いつの間にか八時近い。普段なら祖母はそろそろお湯を浴びて寝る支度をしていることだ。 「は、早く言ってよ!」 「君が呼ばないから悪い」 不機嫌そうな渡空を引きつれ、彼女は慌てて山道を降りていく。 背後には、いつの間に空に上ったのか、真白い月が輝いていた。 ****** 白道アフター。ぶっちゃけただのバカップル。 |